「文明の衝突」 ケルンの衝撃! | にゃんころりんのらくがき

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ケルン暴力事件で露わになった「文明の衝突」
欧州難民危機と対テロ戦争の袋小路(中)
熊谷 徹  2016年1月19日(火)

 新年早々、ドイツは陰鬱な雰囲気に包まれている。2015年の大晦日から元日にかけてケルンに出現した「狂気の夜」は、多くの市民を震撼させた。

ドイツを変えたケルン事件

 この出来事は、単なる刑事事件ではなく、政治的に大きなマグニチュードを持つ。難民問題をめぐるドイツ人の意識は、大晦日の夜を境に、一変したと言っても過言ではない。これまで「戦火を逃れてドイツにたどり着いた難民を積極的に受け入れるべきだ」と考えていた人々は、1年間に約100万人の難民を受け入れることが、現実生活の中で何を意味するかを、ようやく悟った。

 ドイツで一度も起きたことがない暴力事件を見て、ドイツ人たちは、「文明の衝突」を体験しつつある。ケルン事件以降、多くのドイツ人の心から、「難民を歓迎する文化(Willkommenskultur)」は雲散霧消した。首相のアンゲラ・メルケルが難民受け入れ数に上限を設けない限り、彼女に対する支持率は今後下落するだろう。

外国人による女性襲撃

 大晦日の夜に、何が起きたのか。ライン川に面した古都ケルンは、中央駅の南側に大聖堂があることで知られている。中世から約600年をかけて建設された、高さ約157メートルの2本の尖塔を持つゴシック様式の大伽藍は、ケルンだけではなくドイツで最も有名な教会建築の1つである。

 ドイツでは大晦日の夜、新年の到来を祝うために花火や爆竹を鳴らし、シャンペンなどで乾杯する風習がある。年が明けた瞬間には、ドイツ全土で花火が打ち上げられ、硝煙が町や村を覆う。ケルンでも、毎年大晦日には大聖堂と中央駅の間の広場で、花火の打ち上げを見物するために、多くの人々が集まる。

 だが去年の大晦日は、いつもと様子が違っていた。既に午後6時半頃には約1000人の群衆がこの広場に集まり、まだ年が明けていないのに、大聖堂に向けて花火を発射していたのだ。この時、大聖堂では2015年最後のミサが行われていた。ミサに参加した1人は、「聖職者の説教の声が聞こえなくなるほど、花火や爆竹の音がけたたましく響いていた。近年、見られない現象だった」と証言している。

 ノルトライン・ヴェストファーレン(NRW)州のラルフ・イェーガー内務大臣が発表した報告書によると、広場にいた群衆のうち、400~500人は北アフリカ、またはアラブ系の男性だった。これらの外国人の年齢は15~35歳の間で、酒に酔っていた。彼らは打ち上げ花火を人混みに向けて発射するなどしていた。しばらくすると、この群衆の中から数人のグループが離れて、広場にいた女性を取り囲み、胸や下半身を触ったり、財布や携帯電話を強奪したりし始めた。

 被害者の1人は、「あらゆる方向から触られたので、誰がやっているか分からなかった。犯人たちは、悪いことをしているという意識を持っていないように見えた」と証言している。人混みの隙間を通って逃げようとする女性が、両側に並んだ外国人たちによって次々に身体を触られるケースもあった。

 ドイツ人の女性だけでなく、アジア人の女性も被害にあった。スリの捜査のために私服で勤務していた女性警察官も、身体を触られた。ボーイフレンドと一緒の女性もいたが、相手の数が多かったために、ボーイフレンドは外国人たちによる「攻撃」を防ぐことができなかった。ある警察官は、「下着を脱がされて、泣いている女性もいた」と証言している。

 1月17日までに、ケルンだけで約600人が警察に被害届を出した。そのうち約40%が性的犯罪だった。

以下「情報は自分で取得し、自分で判断する」ブログより勝手に拝借

警察は市民を守れなかった

 特にドイツ人を怒らせているのが、警察の対応の悪さだった。現場には142人の警察官がいたが、外国人たちが女性を取り囲んで視界を遮っていたためか、現場指揮官を初めとして、多くの警官たちは、女性たちが外国人に襲われていたことに気づかなかった。ケルン市警察は、「花火のためにけが人が出る恐れがある」として、夜11時35分に駅前広場から群衆を排除し始めた。だがこれ以降も、外国人たちは、広場の周辺や駅の中で、女性たちの身体を触ったり、金品を奪ったりしていた。

 NRW州内務省によると、ケルン市警察が、多数の女性が襲われていたことを把握し始めたのは、1月1日の午前1時頃だった。警察本部が、現場指揮官に対して「警察官を他の地域から現場に派遣するべきか」と問い合わせたのに対し、指揮官が応援を要請しなかったことも、警察の状況判断がいかに誤っていたかを浮き彫りにしている。

 NRW州内務省によると、1月10日の時点で警察は19人の容疑者を捜査している。そのうち10人が亡命申請者で、9人が不法に滞在している外国人だった。亡命申請者のうち9人は、去年ドイツにやってきた外国人。また容疑者のうち14人は、モロッコかアルジェリア出身だった。このうち、窃盗の疑いで拘留されているのは、4人にすぎない。

 ある外国人は、警察官に対して「おれはメルケルに招待されたのだから、丁寧に対応しろ」と言い放った。警察官が現場で逮捕した2人の外国人は、ドイツ人の女性に性交渉を迫るための言葉を、ドイツ語とアラビア語で書いた紙片を持っていた。そこには、「あなたとセックスをしたい」という言葉だけでなく、「殺すぞ」という脅しの言葉も記されていた。この紙片は、ケルンでの暴力事件が突発的なものではなく、周到な準備の下に行われたことを示唆している。

 不可解なのは、ケルン市長やNRW政府が、事件から4日経った1月5日まで、事態の深刻さを意識していなかったことだ。主要メディアもこの事件について、1月5日まで大きく報道することはなかった。1月1日の早朝に、約50人の女性が現場の警察官に被害届を出していたことを考えると、ケルン市警察が1月1日の朝に「駅前広場の状況は平穏」という広報文を発表したのは、非常識と言わざるを得ない。

 NRW州政府は、ケルン市警察の現場対応と広報体制に重大な落ち度があったとして、ヴォルフガング・アルバース本部長を解任した。さらに同様の事件は、ハンブルクとシュトゥットガルトでも発生していた。大晦日の夜に、ドイツ南部のヴァイル・アム・ラインという町では、シリア人の若者4人が、14歳と15歳のドイツ人女性2人を強姦して逮捕された。


メルケル政権に強い衝撃

 ドイツはこれまで比較的治安が良い国として知られていた。100人を超える警察官が近くにいたのに、公共の場で多数の女性が性犯罪の被害者となるという事件は、戦後ドイツで初めてのことだ。

 メルケルは、1月7日に「一部の外国人は、女性を蔑視しているのだろうか。そうだとしたら、我々は徹底的に取り締まる。ケルンの事件は、氷山の一角だ」と強い不快感を表明。また連邦法務大臣のハイコ・マースは、「ケルンでは、一時的に文明国とは呼べない状況が出現した」と述べた。さらにマースは、「ケルンの事件は、突発的な事件ではなく、組織的に行われた可能性がある」とも発言。一部の北アフリカ人たちは、SNSを使って、大晦日の晩にケルンに集まるように声をかけあっていた。

 メルケル政権は、この事件をきっかけに、罪を犯した外国人を国外追放する規定を厳しくする方針を打ち出した。これまでドイツでは、罪を犯した外国人のうち、国外追放処分にするのは、裁判所から禁固2年以上の実刑判決を受けた者に限っていた。今後は、禁固2年未満で、執行猶予付きの有罪判決を受けた外国人でも、国外追放を可能にする。さらに政府は警察官を増員するとともに、広場など公共の場所を監視するカメラの数を増やす。


ケルン事件をめぐる議論

 今回の事件は、ドイツ社会全体に深い衝撃を与えた。ケルンで起きたのは、公共の場での外国人男性による「女性狩り」だ。警察当局が適切に対応できなかった理由の一つは、このような集団犯罪がこれまでにドイツで起きたことが一度もなかったからである。公共の場で、多数の外国人たちが、数時間にわたって臆面もなく女性を襲い続けるという「無法状態」の出現は、警察のマニュアルには載っていなかった。

 ドイツ人たちの間では、ケルンの事件をどう解釈するかについて、激しい議論が起きている。ケルン市長のヘンリエッテ・レーカーは、当初「この事件は、ケルンの難民宿舎に住んでいる亡命申請者が起こしたものではない」と述べ、難民に対する偏見や差別を強めてはならないと警告した。
 また、「ケルンのカーニバル(謝肉祭)や、ミュンヘンのビール祭オクトーバーフェストでも、多数の男性が女性を強姦する事件は起こる。したがって、ケルンの事件だけを特別視すべきではない」という意見もある。
 これに対し、1991年から10年間にわたり、ドイツの公共放送局ARDのアルジェリア特派員を務めたザミュエル・シルムベックは、「北アフリカやアラブ諸国では、公共交通機関の中などで、男性が女性の身体を触る性犯罪は、日常茶飯事だ。ケルンで起きたのは、アラブ世界で毎日起きていることが、場所を変えて起きたにすぎない」と指摘している。

 彼は、「アラブ世界では、多くの女性たちが男性からの蔑視に苦しんでいる。その背景には、イスラム原理主義がある。ドイツのリベラル勢力の間では、アラブ世界で起きている女性差別の実態がほとんど知られていない。今回の事件をきっかけに、イスラム教に関する真剣な議論を始めるべきだ」と述べている。

 ドイツでは確かに、これまで外国人が犯罪をおかした場合に、メディアがその出身国や難民であるかどうかを詳しく報じないことが多かった。メディアは、市民の間にある外国人、特に難民に対する偏見が高まることを恐れたのである。さらにメディアは「イスラム教徒に対して反感を抱いている」と左派勢力から批判されることも恐れた。
 筆者自身、ケルンの事件が起きるまでは、特にARDなどの公共放送局が、難民流入について否定的なニュースを極力避けようとしていることに気づいていた。だがケルン事件以降、メディアはこうした「自粛措置」を大幅に減らしている。連邦内務大臣のトーマス・デメジエールも、「犯罪者の出身国の公表を控えることは、許されない」と発言した。


ドイツの社会規範とは異質な空間の出現

 ケルンの事件は、「男女同権」や「法治主義」が常識となっているドイツの価値観や行動規範とは、全く異質の空間が、難民流入によってドイツに誕生したことを、浮き彫りにした。つまり大晦日の夜、ケルンの駅前広場では、ドイツとアラブの文化が衝突したのだ。そこでは、数時間にわたり、「女性の身体に触れたり、金品を奪ったりしてはいけない」というドイツでの常識が通用しなかった。 
リスク意識が強いドイツ人にとって、治安の確保は極めて重要だ。ところが、ドイツの国家権力を代表する警察は、ケルンの暴力事件の前に無力だった。警察は、市民が治安の確保という任務を委託している「暴力装置」である。その暴力装置が、外国人に襲われる女性たちを守ることができなかった。これは、多くのドイツ人にとって、生活の基盤を揺さぶられるような体験である。ドイツでは、過去1年間にピストルなど、銃器の所有許可を申請する市民の数が急増している。これは、多くの市民が治安の悪化について懸念を抱いている兆候である。

 日刊経済紙「ハンデルスブラット」で副編集長を務めるトーマス・トゥマは、「1965年に西ドイツが大量の労働移民をトルコなどから受け入れた時、作家マックス・フリッシュは、“我々は労働力を受け入れることばかり考えていたが、実際にやって来たのは、生身の人間たちだった”と書いた」と述べている。

 1960年代に、西ドイツの政府と企業は、ドイツで仕事がなくなれば、トルコ人たちとその家族は母国に帰ると思っていたが、多くのトルコ人が手厚い社会保障制度を持つドイツに定住した。西ドイツ政府はドイツ語の習得を義務付けなかったので、30年のあいだドイツに住んでいてもドイツ語を話せないトルコ人たちが、ドイツ人との交流を必要としない「パラレル・ワールド」を作ってしまった。当時のドイツの移民政策は失敗したのである。
 トゥマは、「今回の難民危機で、我々は戦争の被害者たちがやってくると思っていた。実際には、その中には犯罪をおかす者たちも混じっていた」と述べている。今回も、ドイツ政府は外国人の受け入れをめぐり「想定外の事態」に直面したのだ。
 筆者も、昨年9月の初めに、毎日1万人もの難民がドイツに到着し、身元について詳しく検査されることなく入国しているのを見て、「ドイツの治安がフランスや米国のように悪化するのは避けられない」と強く感じた。しかし、そのわずか3カ月後に、ケルンの事件のような露骨で大規模な犯罪が行われるとは、想像もできなかった。

強まるメルケル批判

 筆者は、多くのドイツ人たちがケルン事件以降、「我々は全く異質の文化を抱え込んでしまった」と当惑しているのを感じる。批判の矛先が向けられるのは、ブダペストで立ち往生していたシリア難民らの受け入れを昨年9月に決めたメルケルだ。今この国では、メルケルの難民政策に対する批判が、一段と強まっている。普段はリベラルな論調で知られる「シュピーゲル」誌記者のコルト・シュニッベンすら、「ケルン事件以来、多くのドイツ人が、自分の国の中にいても外国人からの危険にさらされるという疎外感と不安感を抱いている。メルケル政権は、難民の受け入れ数を大幅に減らして、市民の不安を取り除くべきだ」と主張している。

 メルケルの難民受け入れ政策を支援していた人々にとって、ケルンの暴力事件は、大打撃である。これまで右派政党「ドイツのための選択肢(AfD)」などは、「難民に紛れて犯罪者がドイツに流れ込む」と主張して、難民の受け入れに反対してきた。彼らはケルンの事件を見て、「我々の言う通りだったではないか」と豪語している。


 9月以降、ドイツの地方自治体は、「これ以上難民を受け入れないでほしい。もう収容能力はない」と州政府や連邦政府に訴えてきたが、メルケルは「Wir schaffen das(我々はやり遂げることができる)」という抽象的なスローガンを繰り返すだけで、市町村の首長の要望に耳を貸すことがなかった。

 農村部に住む保守的な市民の間では、「難民を際限なく受け入れ続けたら、治安が悪化する」と懸念する声が強かった。筆者は、昨年9月11日にバイエルン州のメッテンハイムという村でキリスト教社会同盟(CSU)が開いた難民問題に関する講演会を取材した。ここで、ある女性がバイエルン州の警察幹部に対して「最近、難民が女性を強姦する事件が増えているという噂がある。どう思うか」と質問するのを聞いた。警察幹部は「そんなことは聞いていない」と答えるだけだった。
 別の市民は、「2001年に同時多発テロを行ったモハメド・アタらは、ドイツのハンブルクで犯行の準備をしていたのに、ドイツの警察や諜報機関は、全く見抜けなかった。現在毎日数万人単位で難民が流入している中、警察はイスラム国(IS)のテロリストが混ざっていないかどうか、どうやって調べるのか」と質問。会場を埋めた約400人の聴衆から、雷のような拍手が巻き起こった。別の市民は、「ドイツ基本法(憲法)の中の、亡命権の保障規定を廃止するべきだ」と発言した。
 この時筆者は、農村部の保守的な市民の間で、難民に対する偏見がいかに強いかを感じた。

 今年1月には、ドイツ連邦憲法裁判所の長官だったハンス・ユルゲン・パピエが、「現在の難民危機は、政治が破綻したことの結果だ。かつてこの国で、法律と現実の間の乖離がこれほど大きくなったことはなかった」と述べ、メルケル政権がドイツの国境を事実上守れずに、難民を無制限に入国させていることを批判した。
 EU圏内に到着した難民は本来、「ダブリン協定」に基づき、最初に足を踏み入れた国で亡命を申請しなくてはならない。ところが、メルケルが昨年9月5日に行った決定により、大半の難民はギリシャに到着しても、そこでは亡命を申請せず、社会保障制度が手厚いドイツへ来て亡命を申請している。これは、ドイツとEUの法律に違反する状態だとパピエは警告したのだ。
 連邦憲法裁判所は、違憲問題を審理する裁判所で、国民に強く信頼されている「法の番人」だ。その裁判所の元長官が、「現政権の難民受け入れ政策は、法律違反だ」と公言したことは、メルケルにとって大きな痛手である。


これまでの難民流入は、まだ序章

 昨年ドイツには約100万人の難民が到着した。大連立政権に参加しているCSU出身で、バイエルン州の首相を務めるホルスト・ゼーホーファーは、「今年ドイツが受け入れる難民の数を20万人に抑えるべきだ」と要求している。メルケルは、「難民の数は減らすべきだ」としながらも、受け入れ数に上限を設けることには反対している。

 ドイツの保守派たちは、「ドイツに到着した難民には、ドイツの法律や規則を守ることや言語の学習を義務付け、この国の社会に適応することを強制するべき。従わない者については、国からの生活保護などを削減するべきだ」と主張している。
 あと数カ月してヨーロッパに春が訪れ、地中海の波が穏やかになれば、再び多くの難民がドイツをめざす。今後3年間でEUにやってくる難民の数は、約300万人に達すると見られている。いまドイツで我々が見ている状況は、まだ序章なのだ。

 筆者は、全ての難民を犯罪者と同一視することには反対だ。全てのイスラム教徒が女性を差別するわけでもないだろう。全てのイスラム教徒が、女性に対する暴力行為を是認しているわけではない。だが、一人ひとりの難民を詳しく審査することなしに、毎年100万人の外国人をこの国に受け入れることは、ドイツに大きなストレスをもたらす。ドイツがこの負荷に耐えられるかどうかは、未知数だ。メルケルが掲げる「Wir schaffen das(私たちはやり遂げられる)」というスローガンだけでは、もはや国民は納得しない。

 メルケル政権は、「難民危機はドイツだけの問題ではなく、EU全体の問題だ」として、他の加盟国にも難民を受け入れるよう求めている。だが英仏や東欧諸国は、難民受け入れに極めて消極的だ。さらにこれまでは受け入れに寛容だったスウェーデンとデンマークも、「収容能力の限界に達した」として、今年に入って国境での入国検査を再開した。難民政策をめぐり、ドイツはEUで孤立している。

 今年3月には、バーデン・ヴュルテンベルク州など3カ所で州議会選挙が行われる。ケルンの事件は、メルケル、そして大連立政権の支持率を引き下げ、右派政党AfDの支持率を押し上げるだろう。有権者はこれらの選挙で、メルケルに対し「あなたは、毎年100万人の難民を受け入れるという決定が、ドイツに与える影響について十分に考えずに、人道的な動機から衝動的に決めた。これは政策ミスだ」という警告を突きつけるに違いない。


「難民を歓迎する文化」の終わり

 ドイツでは、「メルケルが衝動的に難民受け入れを決めた理由」として、しばしば引き合いに出される有名なエピソードがある。メルケルは、昨年7月16日、つまりハンガリーでの難民をめぐる状況がエスカレートする2カ月前に、旧東ドイツ・ロストック市の学校を訪れ、先生や子どもたちと対話した。メルケルは時折、このような「市民との対話」をドイツ各地で行っている。

 この時、4年前にパレスチナからレバノン経由でドイツに来た難民の娘、レーム・サーウィル(14歳)が、メルケルに対しドイツ語で「私は、ここに滞在できるかどうか分かりません。将来がどうなるか、分からないのです」と言って泣き出した。女の子のドイツ語は流暢で、この子が必死でドイツ社会に適応しようとしていることは、明白だった。この時メルケルは、「泣かないでください」と言って女の子の頭を撫でて、慰めようとした。しかしメルケルは、「残念ですが、全ての外国人が、ドイツに滞在できるとは限りません。国に帰らなくてはならない人もいるのです」と厳しい言葉を言わなくてはならなかった。メルケルの顔には、苦しそうな表情がはっきり表れていた。衆人環視の中で、涙ながらに「助けてください」と直訴されたメルケルは、心を鬼にして女の子を突き放さなくてはならなかったからだ。

 ドイツのジャーナリストの中には、「この時の体験が、2カ月後、メルケルを難民受け入れに向けて突き動かした」という意見を言う者もいる。当時フランス政府の閣僚からは、「憐みの心だけで政治を行うことは、危険だ」という声が聞かれた。ケルンの事件後、メルケルは自分の決断が招いた結果の重さを噛みしめているはずだ。
 メルケル政権の閣僚からも、「ドイツは、1年間に100万人の難民を受け入れる力はある。しかし、この状態が何年も続くとなると、話は別だ」という意見が出ている。


 筆者は昨年9月5日に、ミュンヘンの駅に続々と到着するシリア難民たちを、ミュンヘン市民が拍手で出迎え、食料や玩具を手渡すのを見て、感動した。ドイツ人のこうした態度は、「難民を歓迎する文化(Willkommenkultur)」と呼ばれて、米国などで絶賛された。だがケルンの事件は、ドイツの「難民を歓迎する文化」を事実上終わらせた。この国では、難民、そして外国人に対する目が日に日に厳しくなりつつある。メルケルは、市民そして政界からの批判に対して、どのように答えるだろうか。
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これって「文明」の衝突じゃなくてお花畑=偽善リベラル≒グローバリズム≒共産主義との衝突なんじゃ?
字数オーバーになるので
「見て、感動した」というこの“筆者”もお花畑だなと、
「ユーロ」も結局お花畑に始まり、お花畑に終わっちゃうんだなと。
おい、経団連とか、よく見ておけ!とだけ。。。