まずは杉原千畝と言う外交官をここに紹介します。
【すぎはら ちうね】


第二次世界大戦中、リトアニアカウナス領事館に赴任していた杉原は、ドイツの迫害によりポーランドなど欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。1940年7月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して[1]大量のビザ(通過査証)を発給し、避難民を救ったことで知られる。その避難民の多くがユダヤ人系であった。「東洋のシンドラー」などとも呼ばれる。

以上Wikipediaより抜粋


外務省の厳しい圧力にも負けず、ヨーロッパ各国から逃げて来たユダヤ人達を憐れに思い、ペンを持つ腕や手が動かなっても書き続けたその博愛の精神は、ユダヤ人協会から賞を受けるに相応しい生き方でした。

尚、私はユダヤ人批判をしていますが、
国際金融資本家達の富裕層の事であり、
一般ユダヤ人は何ら私たちと変わらぬ
善良な市民であると思います。

杉原千畝の書いた命のビザ

さて話はそれより前の満州国での活躍の話です。

日本は満州国に鉄道網を整備すべく、1933年に
ソビエトの北満州鉄道の譲渡契約に当たっていました。

ソビエト側が提示した譲渡金額は6億円、
日本の国家予算の10分の1にも当たる巨額な取引でした。

交渉に当たる前から杉原千畝は、綿密に鉄道会社の現状を調べ尽くして、有るべき車両が無い事、路線の破損、施設が老朽化して使えない事を写真を提示してソビエト側に見せた。

錆びてボロボロになった鉄道のビスの現物まで用意していました。


日本を舐めきっていたソビエト側は、彼の冷静な態度に驚いていました。

鉄道の惨状をつぶさに提示して、一歩も引き下がらない杉原千畝の姿勢にでした。

結局、最初の金額の四分の一以下の一億四千万円までソビエト側は値下げせざるを得ませんでした。

まさに彼の真摯で腹の据わった交渉姿勢の大勝利でした。

日本が白人相手に見事な外交交渉をしたのは、
非常に珍しい事例です。

後に杉原千畝がソビエトのモスクワ大使に赴任する予定だったのですが、ソビエトは彼を恐れて入国を拒否したぐらいです。


結局、バルト三国のリトアニアに赴任する事になるのですが、ドイツとソビエトは不可侵条約を結んでいましたが、いち早くドイツがソビエトに攻め込む情報を得て、本国に打診しましたが、信用されず日本もソビエトと不可侵条約を結んでしまい
第二次世界大戦終了時に、ソビエトの日本への侵略を防げずに、北方領土を失った原因となります。

リトアニア、カウナスの執務室

博愛精神だけでは無く、外交官のインテリジェンスにも秀でていた彼は貴重な人材でしたが、
外務省はあのビザの一件で反乱分子と位置付けして、戦後真っ先に彼を首にしたのです。

今も昔も変わらない外務省の体質は、日本の足を引っ張り続けているのです。