最近、どうも、物忘れが増えた気がしています。

いや、気がしている、というより、もう、これは、はっきり増えていると言った方がいいでしょう。

六十代にもなりますと、まあ、多少は仕方がないことなのだろうとは思うのですが、それでも、少し前までは、もう少し、頭がはっきりしていた気がするのです。

たとえば、ついさっきまで、「あれをしよう」と思っていたはずなのに、椅子から立ち上がった瞬間に、「さて、何をするつもりだったか」と、ふっと、頭の中が空っぽになる。

そういうことが、最近、やたらと増えました。部屋の真ん中で立ち止まり、腕を組んで、しばらく考え込む、ということも、もう、一度や二度ではありません。

民宿の廊下の真ん中で立ち止まっていると、妻に「どうしたの」と声をかけられることもありまして、そのたびに「いや、ちょっと考え事で」とごまかすのですが、実際には、ただ単に、何をするつもりだったか忘れているだけなのです。

台所でも、同じようなことが起こります。

冷蔵庫を開けたはいいものの、何を取りに来たのか、思い出せない。

しばらく、冷蔵庫の中をぼんやり眺めて、結局、何も取らずに閉める。

それで、また少ししてから、「ああ、そうだ、味噌を取るんだった」と思い出して、もう一度開ける。

すると、なぜか、そのときはまた思い出せない。仕方がないので、とりあえず牛乳だけ取り出して、また閉める。こういうことが、最近、妙に多いのです。

民宿の仕事をしているときでも、ときどき「あれ?」となります。

お客さんに「タオルをもう一枚お願いします」と言われて、タオルは持ったのに、途中で「あれ、他に何か頼まれていなかったかな」と気になる。

台所に戻ってから、「あ、そうだ、お茶のポットもだった」と思い出す。

こういう小さな抜けが、少しずつ増えている気がします。

本当はメモを取ればいいのですが、そのメモを、今度はどこに置いたか分からなくなる。

テーブルの上、カウンター、厨房の棚、いろいろな場所からメモが出てくるのですが、どれが最新のメモか、分からなくなることもある。これはもう、笑うしかありません。

若い頃は、こんなことはなかったのに、と、つい思ってしまいます。

ですが、よくよく考えてみると、若い頃は、今よりずっと無茶をしていました。

朝から晩まで働いて、そのあと山へ行ったり、海へ行ったり、夜遅くまで釣りをして、次の日も普通に仕事をしていた。

今考えると、あの体力はどこから来ていたのか、不思議なくらいです。

今はもう、体も、頭も、少しずつ省エネ運転に入っているのかもしれません。

この民宿も、もう長くやっています。

昔は、夏になると満室が続き、玄関には長靴がずらりと並び、子どもたちの声が一日中聞こえていました。

川遊びや、山歩き、夜には庭でバーベキュー。

あの頃は忙しくて、物忘れをしている暇もなかったのかもしれません。

最近は、観光の形も少し変わってきて、宿もなかなか大変です。

お客さんの数は、昔ほど多くはありません。それでも、来てくださる方には、この土地の自然をゆっくり楽しんでほしいと思っています。

朝早く起きて、裏山を歩くと、空気がとてもきれいです。

鳥の声がして、川の音がして、季節ごとに違う匂いがします。

春は山菜、夏は川遊び、秋はきのこ、冬は静かな山の景色。こういう自然を、宿泊と一緒に楽しんでもらえたらいいな、と、いつも思っています。

最近は、お客さんに「朝の散歩コース」を案内したり、近くの温泉の話をしたり、ちょっとしたアウトドア体験の話をすることも増えました。

ただ、その案内をしている最中に、「あれ、この道は何分くらいだったかな」と、少し考え込むこともあります。

そういうときは、正直に「だいたい二十分くらいですねえ、私も最近、時間の感覚が少し怪しくて」と笑ってしまいます。

お客さんも「そういうの、ありますよね」と笑ってくれるので、それでいいかなと思っています。

最近はもう、「忘れる前提」で動くようにしています。

鍵は必ず同じ場所、財布も同じ場所、宿の帳簿も決まった棚。これだけでも、ずいぶん違います。

それでも、「あれ?」は起きます。ですが、慌てないことにしました。

思い出せないときは、少し外に出て空気を吸うと、ふっと思い出すこともあります。

山の空気というのは、不思議なもので、頭も少しすっきりする気がするのです。

忘れることが増えた分、まあ、あまり気にしすぎない。思い出せなければ、あとで思い出せばいい。

それくらいの気持ちでいた方が、気が楽です。

六十代にもなると、人生も少し長く見えるようになります。

多少忘れることがあっても、まあ、それも人生の味なのかな、と、そんなふうに思っています。

今日も民宿の玄関を掃きながら、「さて、今日は何をするつもりだったかな」と、少し笑いながら、のんびりやっています。