私が民宿を営む中でいつも心に置いているのは、「宿とは、ただ眠るための場所ではない」ということです。
旅の途中で訪れる方に、少しでもこの土地の空気を感じ、地元の人の温かさに触れてもらいたい。
そして、帰るときに「ここに来てよかった」と思ってもらえたら、それが何よりの喜びです。
だからこそ私は、宿泊そのものよりも、“滞在の時間”にどんな価値を添えられるかを常に考えています。
たとえば、朝食ひとつとっても、私は「この土地の朝を感じてもらうこと」を意識しています。
季節によって野菜の種類や味が変わるのが田舎の良さです。
春は山菜の天ぷら、夏は採れたてトマトやキュウリを使ったサラダ、秋には炊き込みご飯、冬は大根の煮物。
朝の定番として人気なのが、地元の卵とネギを使ったふんわりオムレツ、そして手作り味噌で仕上げた味噌汁です。
この味噌は、毎年冬に仕込んで半年ほど寝かせてから使います。
深みのある香りが食卓いっぱいに広がり、「この味噌汁が忘れられません」と言ってくださるお客様も少なくありません。
そんな言葉を聞くたびに、「ああ、自分の手で作った味が誰かの思い出になるんだな」と、胸がじんわり温かくなります。
夜には、少し変わったお楽しみも用意しています。
それが「地元の昔話の語り夜」です。
もともとは冬の夜、雪に閉ざされた日々を過ごす地元の人たちの間で語り継がれてきたもので、私の祖母がよく囲炉裏端で話してくれました。
その記憶が忘れられず、「お客様にもこのぬくもりを伝えたい」と思い、始めたのです。
焚き火や薪ストーブの火を囲みながら、狐や狸の不思議な話、山の神様の昔話などを語ると、都会から来たお客様が目を輝かせて聞いてくださいます。
「こんな夜を過ごせるとは思わなかった」「まるで昔に戻ったようだ」と言われることもあり、その言葉が何よりのご褒美です。
こうした工夫を重ねているうちに、宿そのものが「体験の場」になっていきました。
滞在中にお客様と一緒に味噌を仕込んだり、翌朝、近くの川辺を散歩したり。宿泊の“前後”に広がる時間こそが、旅を特別なものにしてくれるのだと思います。
コロナ禍を経て、私はより強く感じるようになりました。
人は便利さや豪華さよりも、「心に残る時間」を求めて旅をするのだと。
SNSやネットでどんなに美しい写真を見ても、実際に地元の空気を吸い、そこで過ごす人の声を聞く時間には敵いません。
民宿の役割は、そうした“生の旅”をつなぐ場所であることだと私は信じています。
もちろん、民宿の経営は楽ではありません。設備の修繕、食材の確保、人手の問題――課題は山ほどあります。
でも、夜の食卓でお客様が笑顔で「ごちそうさま」と言ってくださる瞬間、そんな苦労はすべて報われます。
これからも、私は「泊まるだけでは終わらない宿」を目指します。
朝のごはんで季節を感じ、夜の語らいで人のぬくもりを思い出す。
そんな旅のひとコマを、この民宿で過ごしてもらえたら、こんなにうれしいことはありません。
旅の記憶に残るのは、景色や料理だけではなく、そこに流れる時間と心。
私はその“時間の味”を、これからも丁寧に育てていきたいと思っています。