ハラハラと 落つる雪は美しく 血に染まれどまた趣深し


花の命は短しと 急ぎ手折る漢(をとこ)の無常さを 夜風に吹かれ思ひ出す






「どうかした?」


寝床から抜け出した私に、眠い目を擦りながら漢はそう問う。


「何でもありません。お気になさらずお休みになって下さい。」


漢を一瞥もせず、声だけをかけた。

そのまま着崩れた浴衣の上に薄いはんてんを引っ掻け、縁側に腰を下ろす。

弥生の時分と言えど深夜はまだ肌寒い。

遠くに見える山の頂きは白いまま、決して深紅には染まらない。


「やっぱり変だよ、深紅(みく)。何を考えてる?」


漢がこちらへ向かってくる畳を刷る足音がする。


「凌(しのぐ)様、過ぎてしまった昔のことです。たわいもない、こと。―それよりもうお休みなさいませ、私もじきに参ります。朝、眠そうなお顔では、私が奥様に叱られてしまいますから…。」


年明けからお屋敷に出入りするようになって、アノ夢を見ることが増えた。

見れば、今はこの漢のものであるはずの私が、当てもなく、彷徨い始める。


「嫌だ、俺じゃない誰かを思っている深紅をおいて眠ってしまうのは。深紅は俺だけのものだよ。」


そう言って、漢は動こうとしない私の体をすっぽりと、そして力強く抱きしめた。

その最後の台詞だけが私の頭の中を駆け巡る。



『俺だけのもの』



昔、彼以外にそう言った漢がいた。

私を手込めにした漢。

15で一人きりになってしまった私に生きるすべを教えた…



漢の手が形だけの浴衣の帯に手を掛ける。

私を自分の物にするために。







あの日、花が散った日、雪の残る庭へ裸足で逃げ出した。







雪は深紅に、染まった。






雨は、わりと好きだ。







少し湿った空気とザーザーと一定の間隔で聞こえる雨音、雨に濡れて色が一層濃くなった風景も。



でも、それよりももっと明確な理由があって、それは『彼女』の存在。

彼女を初めて見たのは春先の夕立の中。

急に降りだした雨で、走りだす人々に紛れる事無く、ただ一点を見据え、身体が濡れていくのもかまわず、燐としたまま歩いていた。



僕は、その姿に心を、奪われてしまった。



あれから2カ月半、晴れの日はどんなに捜してもいない彼女を、雨が降るたびに捕らえる事ができる。

それは一種の魔法のような…。


そして、今日は予報外れの夕立。


傘を持ってない人達がカバンやタオルを傘代わりに駅へと急ぐ。

その中を、心なしか寂しげな姿で、ずぶ濡れのまま歩いている彼女を見つけた。

気になって気になって、持っていた傘と一緒に近づく。



「風邪、引きますよ。」



それが彼女に言った初めての台詞。

僕の声に振り向いた彼女の頬には、雨ではない雫が伝っていて、次の瞬間、僕の胸へと消えた。



「ごめん、ちょっとだけ…。」



小さく聞こえた言葉。

何故か自然に、僕は彼女の背中に手を回すことが出来た。



―幾分かして水溜まりが太陽の光に微か反射し始める。

視線をあげるとまだ小雨が残る中、遠くに群青色の空が見えた。





雨は、嫌い。















降り込まないように、ありとあらえる窓を締め切ってしまうと、部屋中に、香水の匂いが充満してしまうから。



幼い頃は、それが仕事に出掛ける合図で、淋しくて嫌だった。でも、今は…男と行為におよぶ前支度。
母の仕事が『売り』の一種になったのは、あたしが高校に入ったくらいのとき。



ショック、だった。



そのことを知った日は、朝から土砂降りで、友達と遊園地に行く計画がポシャッてしまった日。

押し入れの中から絡み合う男と、母(おんな)の姿を見た。




その日から雨の日は家にいられない。




何度もフラッシュバックする光景と母の香水の匂い…、すべて消し去ってほしくて外にでる。




―今日は、朝から晴れ、何事もない一日が終わるはずだった。家に帰るまでは…。




玄関の先、見えたのは一対の首吊りの死体だった。




母と、知らない男。

どちらの顔も険しく歪んでいて、足元には母の香水のビンが倒れ、締め切ってあった部屋はむせるようなソレでいっぱいだった。










――ドアを、閉めた。









そして帰ってきた道を引き返した。









やがて雨が降り始めて、『彼』に出会った。



「風邪、引きますよ。」



その声が波紋のように身体中に広がる。

振り向くと、彼はとても心配そうにあたしを見ていた。

その時何故か、彼の胸でなら泣けそうな気がして頭を埋めた。

背中にも彼の腕から体温が伝わってくる。



「見て、空がとても綺麗だ。」



どれくらいそのままだったのかわからないけど、耳元に彼の声が聞こえた。

彼が指差した先には群青色の空。


ずっと昔、『この色がお母さんは一番好きなの。』と言っていた母の笑顔と思い出は、まだ残る雨で綺麗に消されていった。