フロムさんは言う

「日本には(花鳥風月)を愛でる文化がある

 西洋人は悟りを理解できないということではないが

 日本人は愛でるだけではなく それらを見ることは

特別なことでもない すでにそこには無意識を意識化

しているからであり 意識を拡大し現実に多く触れる

真実に触れているということであり 意識の拡大は

暗闇に光をもたらすように 目覚めるということだ

悟りは 若返りをもたらすのだ」

 このことは 大拙さん曰く「無意識による日常生活

での芸術が悟りなのだ」ということか・・

大拙さんは「悟りの境地」になるには子どものように

無邪気になって カッコつけずに軽く生きよ さらには

過去との整合性がとれなくともよいのだ なぜならば

新しく生まれ変わるのが「悟り」だからだ という

★ それでは「悟り」とは・・

今までの「悟り」は 涅槃に行くことだけが目的の

「悟り」で 何が起きても「静を保て」で

容易なことではなかった

 しかし大拙さんは 「動の中にこそ悟りがある」

その「動」は「日常の生活の中にある」・・と

「悟る」ということは 何処にいても何をしていても

自由なココロを持つということ

どこにいても・何をしても 「動の中で」ココロは

平穏・安らぎを保つことができるのだ

「動」は まさに「生きる」ということなのであり

欲望と執着を否定する要もない この二つはともに

無意識の領域にある

それを意識で 押さえようとするから無理がでてくる

「悟れ」ないのは 当然のことなのだ。

この本今だ消化しきれず 私に多くの宿題を与えた。

皆さんも 興味のあるかたは買い求めてじっくりと

お読みになられたらいかがですか

読み人により「悟り」についての解釈は 異なります

でも それでよいのです

「悟り」の方法は いくつあってもよいのですから。

(完)



 大拙さんは「悟りとは 芸術である」といっており

「日常生活の中にこそ 芸術が潜んでいる」つまりは

「毎日の生活自体が 悟りなのだ」と いうんですね

★ここでも疑問が出てくる「悟り」は毎日の生活の中に

あるというのに 一方では意識そのものを否定する

毎日の生活言動は 意識があるからこそなのに・・

 

 フロムさんは言う

「意識は 虚構であり妄想であり真実を見ることが

 できないでいる 意識は無意識よりも高い価値のもの

 との思い込みがある 悟りとは無意識的なものを

 意識的なものにすることなのだ」・・と

★ということは 毎日の言動は無意識が自動的に

意識に変換しているということなのか・・だとしたら

スピ系指導者の『意識を磨け・高めよ』というのは嘘だ

となってくる

 大拙さんは『無意識なくして意識活動はあり得ない

その無意識は 宇宙と通じており宇宙的意識と呼ぶ』

これを フロムさんは「自分の中に生きているもの」と

表現しています

★「純粋意識」のことなんだと思う

「眠り・目覚め・夢」の意識とは違う 第四の意識です

この意識は 深い瞑想状態での意識といわれてますが

大拙さんのいうところを自由に解釈すれば 瞑想状態

だけではなく 目が覚めている状態においても無意識が

人体の五官五体を駆使してつくることができる・・

これがつまり「無意識によって意識が誘導されて起きる

日常生活の芸術」との表現となって出てくるのか・・  

5(完)へ続く

★この「見えないモノの中に 真の何かがある」と

いうのも 解ったようで よう解らん・・

例えて言えば「タイタニック号」の氷山のように

見えない部分を 見ようとせずに見過ごしていると

大変なことになるんだよ との解釈でよいのか・・

「意識と無意識」の関係のことなのかもしれません

 とにかく解らんところは後にして 前に進もう

大拙は 釈迦の悟りはウソだ・・と言う

座を組んで端然として動ぜず・・だけでは

悟りは得られず 涅槃にはいけない・・なんだそうな

意識は己の内側ではなく 外へ向けるものだ・・と

欲望を否定してはならんのだ・・というんですね

「腹が減れば飯を食えばよい」ごくごく当然のことを

サラリと言っている・・「悟り」って そうなの・・

★大拙さんの 普段の生活の中にこそ「悟り」がある

という言いかたは 妙に「腑に落ちる」んですね

なぁんだ「悟り」なんてのは むずかしくはない

大拙さんて ごく普通の人で 偉い人ではないんだよ

だってねぇ・・50歳も離れている女を二番目の嫁さん

にしちゃったんだから うらやましいよ・・

もしかして大拙さん かなりのモダンボ-イ・・かもね

 考えれば こういうことは普通恥ずかしくてできない

真面目でスケベなワガハイなんか とてもとても・・

昔のことだから 蔭では破廉恥などと言われたんでは

それをやり遂げて 堂堂としているということは

意識的な行為とは とても思えないのでございます

 

 フロムさんも同じようなことを言っている

「普段の生活は自分をも含めて 虚構で成立している

 ナゼかといえば すべてが意識で動いているから」

 しかし 意識があるからこそ世の中が動いている

だけど そこには数々の制約があって自由がない

意識のせいで 自由になれないのだ・・

そっかぁ 意識が自分を縛っているから「悟れ」ない

ということは・・意識を高めたって何にもならない

そういうことなんだね

だからフロムさんは 意識は自分の言動への言い訳を

するためにあるのだ・・とも

★ここでも疑問が出てくる 普段から使っている言葉

「意識を高める・磨く」・・よくよく考えると解らん

 人間が無意識よりも意識を尊重して行動するのは

周りからの孤立を恐れるからなのだ だから人は

普段考えられることを 考えようともしないのだ・・と

フロムさんは言っている 何か・・むずかしい 

そして フロムさんは(ハイル・ヒットラ-)のドイツ

から米国へ逃れて 大拙さんと出会う

そこで フロムさんは『意識社会で規制されていた

自分がもっている さまざまなエネルギ-を外へ出す

ことが悟りなのだ』と 言っているのです

★これには びっくりです「静×・動○」なんです

「空白」というのは『静ではなく動だ』・・と

大拙さんもフロムさんも 同じ見解なんですね

今まで「悟り」とは 何が起きても動じないことと

思ってましたから むしろ動くことによって「悟り」を

得ようというんですからね

「ヴィパッサナ-瞑想の歩く瞑想」を 思い出す

では 「無意識と意識」の関係を この二人は何と

言っているのか・・ 4へ続く

 





 医者から「ご臨終」といわれ よみがえった人たちの

話を また聞きですが『川向うで亡くなった親たちが

手招きをしているので渡ろうとした・死者である仲間が

並んでいて自分の番になったら(お前はまだ早い戻れ)

と番人から言われて』生き返った・・この川と言うのは

(三途の川)なんでしょう その川幅は400K以上も

あると言われてまして 手招きしている人間が見える

わけがない・・作り話だね きっと・・しかし

いよいよ死ぬ時が来たのだと 往生したくない魂を

あきらめさせるために 川幅をショ-トカットして

親たちの顔を見せたのかもしれない・・

 このぉ(お前はまだ早い戻れ)との言葉は まことに

意味深長だと思いませんか・・

どっちにしても今でいう『自分そっくりのクロ-ン』

人間として戻るのでは なさそうであります

ならば この世にココロも身もあるうち好きなものを

食って 好きな女がいたらデコボコを眺めて

好き勝手に生きていくのが「悟り」なのだ とも思う

大拙さんが たどりついた「悟り」も どうも

そのようなのだから・・

 この世で何を「悟る」のか・・

「生きている」ということ これこそが「悟り」

なのでは・・とも思う

たとえ「悟り」を得たとして どんな得があるのか・・

そもそもが「悟り」って いったい何なのだ

そんな 訳の分からないことを言いだしたのは誰だ

 物事は損得では決められない・・そりゃあそうだ

何もない目に見えない空白の世界こそが物事の集大成の

宝庫であり そこにホントウの大切なものが真実がある

『不立文字教外別伝ふりゅうもんじきょうげべつでん』

ならば その「空白」を探して 「空白の世界」で

「自由に遊ぶ」ことが 「悟り」だということなのか

なんとまぁ・・むずかしいことを

「何もないところに 何かがある」だぁ・・?

「何かってナニよ」ちぃっとも解らんぞなもし・・と

思ったが これは『見えるものだけに囚われていると

自分の存在を忘れてしまうし むしろ見えないモノの

ほうが要の場合が多いのだ』ということなんでしょう

3へ続く



 「悟る」ということは この世のすべての快楽を

楽しむこと・・これは解る

 「悟り」の名人は子どもなのだ・・これも解る

 「自分は何者」もともとは自分という存在はない

じゃあオレは もともとは透明人間だったのか

ナンか禅問答のようで ようわからんって

 その「何もないところに何かがある」・・そこには

とてつもない「妖怪」が潜んでいるようだ・・

フ~ン「その妖怪」ってのが「悟り」ってやつなの

自由からの逃走:エーリッヒ・フロム著

禅と精神分析:鈴木大拙 エ-リッヒ・フロム共著

アロマ学校時代の教科書より 

何回で終わるか 見当がつきませんが今回の記事は

上の三点からの 引用が主です。

多分 山ン中の一本道を行ったり来たり・思いつくまま

つぶやいたりで つまり支離滅裂・まとまらない・・

「だったら書くな」と叱られますが・・

そうも言ってらんない 何せ他に記事ネタがない

お許しアレ・・。 

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 昨年12月に 娘のカバン持ちで金沢市へ行ったとき

「鈴木大拙記念館」を見学してきました そん時に

思い出したのが 途中まで読んでよう解らんかったのが

積んどいた 上の二冊でございます 

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「この世と あの世 があって 人は死ぬとあの世へ

 いって修行して この世へ舞い戻る」・・


 このことは確かなことなのか 証明できるのか・・

○次元の世界があって その世界はこうなっている

とかの話はあるが それはホントのことなのか・・

 疑り深い私には 眉唾モノとしか思えないのだ

あの世のことは 死ななきゃわからないし 死んでから

わかったってしょうのないことで きっととてつもなく

頭の良い人間の考えた創作なのでは・・

臨死体験とか幽体離脱とか いってるけども それは

実験での話で 実際に死んでの話ではない 2へ続く