松竹伸幸著『私は共産党員だ!』を読んだ。――本書は、 松竹氏の主張が共産党の綱領・規約や決定に反するものではないこと、除名処分の手続きが規約に基づいていないことを主張するものとなっている。つまるところ松竹氏の共産党復帰裁判のための資料であり、その意味では〝退屈な〟読み物であった。特筆すべき感想というものはないが、少しだけ思いつくままに書き留めておこう。

 松竹氏の政治的主張の部分に関しては、党大会決定である自衛隊解消三段階論に即してやや弁明するように書かれているのに対し、規約に関する部分については、それがまったくない。弁明する必要すらないという印象を受けたが、松竹氏の「党内に存在する異論を可視化するようになっていない」という主張に対し、党機関は反証として異論が掲載される党大会前の討論紙(誌)の存在をあげ、「事実を歪めて攻撃している」とした。もし松竹氏が〝党内に存在する異論の可視化が不十分だ〟とか〝いまなお多くの国民の目には共産党は異論のない政党とうつっている〟とか何らかの限定をつけて述べていれば、党が難癖をつけることは難しかったかもしれない。いずれにしても、指導部と松竹氏の主張の違いは〝異論の可視化〟の程度の違いである。第三者からみれば非本質的な細かい話としかみえず、松竹氏の主張を取り入れたところで、共産党の党勢回復にどれだけの効用があるかは定かではない。

 除名に値する規律としての「分派禁止」を前提としたうえで、異論は認める、ある程度その〝可視化〟もするというのがこの党の現状なのであるが、そもそも「分派禁止」の始まりは、ロシア革命後のソ連で、内戦終盤という特殊事情の下で、一時的措置として党大会で決議されたものだ。さらにレーニン死後、分派活動の継続は除名に値するものとされたが、それでもなお実際に分派(活動)は存在し、路線論争等は公然とやられていた。あくまで党の分裂を意図した分派(活動)だけが規律違反とされたのであり、政策・路線論争過程での一時的な分派(活動)が問題にされることはなかったのだ。
 それが混同されてより厳しい規定となっていくのは、スターリンによる政敵の追放・粛清と、幹部の暗殺事件を機にそれがエスカレートした「大粛清」以後のことである。「大粛清」は、ロシア革命を担った党をまったく別のもの(=全体主義の党)に変え、コミンテルンをも破壊した。スターリンの党は、国際共産党であることをやめ、祖国(ソ連)を守ること=ロシア共産党独裁を守ることを何よりも優先し、それは党幹部、とりわけそのトップを守ることと同一視された(現在の中国共産党、朝鮮労働党はその正当な継承者だ)。
 この共産党の負の歴史に真摯に向き合うなら、分派(活動)の禁止規定は処分の対象にならない努力義務に〝格下げ〟しなければならない。そして公然たる政策・路線に関する議論を党の公認のもとでおこなう真に民主主義的な党風を確立することである。――これは、スターリン主義の弊害を一つひとつ除去してきた日本共産党において最後まで残ってしまった宿題だ。といっても現行規約では「分派禁止」はすでに努力義務として書かれているため、規約を変更することなく運用を変えるだけで事足りる。指導部(の意識)が変われば、いつでもこの宿題は解決できるのだ。
 

管理人(2024/7/3)