第29回党大会の「報告」についてはまだ触れていなかった。報告者は田村氏であるが、読めばわかるように志位氏に特徴的な論法が随所にみられる。今回は党建設の部分に限って簡単に述べておきたい。

 

「自己規定」とは

 「第3章」で最初に展開されるのは単純な三段論法である。
1、「多数者革命を進める主体は、主権者である国民」である
2、「『国民の自覚と成長』は自然成長では進まない」、「支配勢力の側の主張、変革への妨害や攻撃を打ち破る理論と運動がどうしても必要」である。
3、そうした「理論と運動を担い、不屈性と先見性を発揮して奮闘する党が不可欠」だ。
 そして以下のように続く。
 

 改めて指摘したいのは、これは日本共産党の自己規定だということです。党規約第2条は、「党は、創立以来の『国民が主人公』の信条に立ち、つねに国民の切実な利益の実現と社会進歩の促進のためにたたかい、日本社会のなかで不屈の先進的な役割をはたすことを、自らの責務として自覚している」と明記しています。組織としても、一人ひとりの党員も、この役割を自覚して活動し、国民の信頼、支持、共感を広げる、そのことによって「自覚と成長を推進する」ということです。
 

 これは、国民を上からあるいは外から導いていこうというものではありません。多様な要求の実現にともにとりくむなかで、要求を阻む政治の矛盾にぶつかる。政治の変革の必要性が国民の認識になり、革命の事業に広範な国民の支持を集めていく。こうして統一戦線に国民多数の結集を進めていくのが、わが党の役割です。

 

 「国民を上からあるいは外から導いていこうというものでは」ないと言いつつ、実質的に党が国民を「革命の事業」や「統一戦線」に導くというのは矛盾だろう。「報告」の力点はあきらかに後者にある。
 こういった説明は旧規約なら当てはまったかもしれないが、現行規約の精神からすれば間違いである。党規約第2条の規定は、共産党員は多数者革命のために献身し奮闘するという、国民に向けての「決意表明」ないし「公約」なのであって、上記のような「自己規定」ではない。党が「支配勢力の側の主張、変革への妨害や攻撃を打ち破る理論と運動」の担い手となれるかどうかは、現実の闘争や運動という実践の中で明らかにされることである。
 

建前としての民主集中制
 「報告」の民主集中制に関する部分、党指導部の選出方法――ともに、従来どおりの、建前としての民主集中制(民主集中制の五つの柱)を持ちだしての弁明にとどまっている。かろうじて、現在の党指導部の選出方法を擁護する具体的な説明として以下の文章が続く。
 

 なぜこうした選出方法をとっているのか。なによりも、党のなかに派閥や分派をつくらず、公党として国民に対する責任を果たすうえで一番合理的だからです。党指導部を党員による直接投票で選ぶことになれば、候補者は自分を支持する多数派をつくるために活動することになり、必然的に、ポスト争いのための派閥・分派がつくられていく。これは他党の現実が証明しているのではないでしょうか。

 

 残念ながら「他党の現実が証明している」のは「報告」とはまったく逆である。そもそも自民党の派閥は、総裁選によって生まれたものではない。当初は立候補制ですらなかったのであり、これによって派閥が生まれたのでないことは明らかであろう。共産党と同じく派閥のない日本維新の会でも、この間の党首選によって派閥は生まれてはいない。
 この文面のあと、「支部や地区・都道府県・中央委員会のなかで、誰を支持するのかという議論が行われ」ると、「対立が生じ、主張や行動がバラバラになって」とまで言われているが、そのようになる必然性、根拠については何も語られてはいない。説得力に欠ける党指導部の決めつけでしかないことは明らかであろう。
 

官僚主義の特徴としての自己陶酔と無責任
 「党勢拡大・世代的継承の大運動」としての「130%の党」という途方もない目標、しかもそれが「いよいよ緊急で死活的な課題」だという大仰な語り口――これらを読むたび、このような大言壮語はいったいどこから来るのだろうかという疑問が湧いてくるかもしれない。
 だがその答えは明瞭だ。これらは自分たちこそが組織を動かしているのだと過信する「官僚主義」の特徴なのである。しかもそれには、必ずといっていいほど「無責任」がついてまわる。
 そのことは、「緊急で死活的な課題」の遂行にむかって「大運動」しているはずの党組織の現状がいかなるものなのかをみればわかる。「報告」には驚くべき党の現状が語られている。
 

現状では、大会決定・中央委員会総会の決定を読了する党員が3~4割、綱領の読了が5割、党費の納入が6割台、日刊紙を購読する党員が6割となっており、抜本的打開が求められています。「党生活確立の3原則」、決定の読了と一大学習運動で、党の質的強化へ、ともに奮闘しましょう。(強調は引用者)

 

 このような現状を放置しておきながら「抜本的打開が求められて」いると他人事のように述べるなら、いくら「130%の党」だの「いよいよ緊急で死活的な課題」だの言っても、それらはカラ文句にしかならないだろう。「多数者革命」?「理論と運動を担い、不屈性と先見性を発揮して奮闘する党」?「革命政党」?――党指導部と指導部を信奉する専従者の一群だけがそれらを体現しているならば、そのような「自己規定」とは彼らだけに共有される自己陶酔でしかない。そのような自己陶酔が、指導部批判に対する「姿勢に根本的な問題」「党員としての主体性を欠き、誠実さを欠く」「まったく節度を欠いた乱暴な発言」「批判の矛先を百八十度間違えている」「問題のこの政治的本質をまったく理解していない」といった罵詈雑言を生み出しているのである。

 なお、こうした「結語」にみられる官僚主義の問題については、「さざ波につづく」氏という方が「変節堕落『日本共産党』批判ブログ」の「官僚主義が露呈・田村智子の報告」で詳しく述べている。やや長い文章であるが、是非おすすめしたい。

 

管理人(2024/2/2)