前回は勢いで書いてしまったので、今日はその論旨を補強すべく少しばかり追記しておきたい。

 

 党大会やその後の党指導部および指導部支持者らの発言(SNS含む)をみると、彼らは問題を除名処分の正当化という視点でしか捉えておらず、この除名問題で何が問題にされてきたのか、何が論点になっていたのか、まるでわかっていないことがわかる。

 

 そもそも、松竹・鈴木両氏の除名処分は、彼らが主張した異論の内容ではなく、異論の提起方法(=出版)をその根拠にしていた。だから穀田氏は、鈴木氏の本も読まずに正々堂々と記者会見で「けしからん」と言えたわけである。

 

 この処分に対して発生した批判は、大きくわけて二つ。

第一、一発除名は厳しすぎるという批判

第二、(実際に問題の著作を読んだ人たちから)攻撃とはいえないという批判

 

 党指導部は、第一の批判に対しては、マスコミも使って用意周到に準備されてきた等として押しきったが、問題の著作を読む人が増えるにつれ、第二の批判が無視できなくなった。異論の提起方法が問題だとする指導部の論理ではこれに答えることができず、彼らは異論の内容にまで踏みこまざるをえなくなる。

 ところが、ここには党規約に触れないように異論を理由にした処分でないとした彼らの論理の落とし穴がある。彼らが、その異論がまさに党への攻撃だと説明すればするほど、ますます異論が処分理由になっているという疑念を広げた。同時に、両氏の著書に共感した人たちは、自分たちが批判されているとみなして、ますます反発したのである。

 

 もちろん、こうして党指導部が、除名という重い処分を正当化するために異論の内容がいかに問題かを訴えることは、彼らの当然の責務である。それは誰も否定しないであろう。しかし同時に、処分を受けた側に弁明・反論の機会を与えなければ、専制的な処分だというそしりを免れえない。それは裁判を思い浮かべれば誰にでもわかることだ。

 こうした党指導部の対応の問題点を大山代議員が党大会で指摘・批判したのだが、指導部は聞きいれなかった。除名再審査を大会代議員の審議にはかることなく松竹氏に弁明の機会を与えずに一方的な「却下」報告ですませ、彼女の発言を問題視して「結語」で叱責することさえした。党大会は、党指導部の党規約違反の異論排除体質、横暴ぶりを浮き彫りにしたのである。

 

管理人(2024/1/25)