党大会2日目の山下芳生副委員長による「松竹伸幸氏の除名処分再審査についての報告」について、先だって「これらの特殊な見解が党大会で表決されたことはきわめて重い意味をもつ」とコメントした。このコメントでは不十分なのであらためて山下報告の問題点を指摘しておきたい。

 真っ先に指摘しておかなければならないことは、この山下報告は党規約違反だということである。党規約第三条の民主集中制の基本原則を述べた部分、その第一項は「党の意思決定は、民主的な議論をつくし、最終的には多数決で決める」となっている。ところが山下報告ではこの多数決制をまっこうから否定してしまっている。
 

わが党が党員の直接選挙によって党指導部を選出するという方法をとっていないのは、それが必然的に多数派形成のための活動――派閥・分派をつくることを奨励することになるからだが、その事実そのものは、松竹氏も認めざるをえないのである。

 

 このように多数決制※に必要不可欠な「多数派形成のための活動」を「派閥・分派をつくることを奨励すること」だとして否定してしまっているのである。

 大会幹部団による「派閥・分派」の拡大解釈はそれだけにとどまらない。除名処分を下した京都の党機関による特殊な解釈を追認している。
 

「除名処分決定文」は、松竹氏が、わが党に対して「およそ近代政党とは言い難い『個人独裁』的党運営」などとする攻撃を書き連ねた鈴木元氏の本を、中身を知ったうえで、「同じ時期に出た方が話題になりますよ」と出版を急ぐことを働きかけ、党攻撃のための分派活動を行ったことを批判した。


 一般的に政党の派閥といえば、(1)国会議員など政党の要職にある者たちが(2)共通の政策や主張を形成し(3)その実現に向けての活動する――そういう集団をさす。ところが、京都の党機関が認定した分派活動は、このような常識的理解とはまるっきり異なっている。
 (1)国会議員どころか地方議員でもなく党の専従職員でもない末端の所属の違う支部党員2人が、(2)共通の政策や主張を形成しようとしたわけでもなく、(3)ただ党指導部を批判する出版物の刊行時期を合わせた――これが「党攻撃のための分派活動」だというのである。
 こういう特殊かつ恣意的な分派認定がなされるなら、党の民主集中制の基本原則である党規約第三条の第五項、「意見がちがうことによって、組織的な排除をおこなってはならない」という条文はまったく機能しなくなる。鈴木氏の除名処分時の記者会見で、とある記者がそのことをうまく言い表しているので以下に引用しておこう。
 

記者:共産党には自由がなく一枚岩で鋼の鉄の規律でうんぬんと。若い人から見ると全く自由がない組織で、それが当たり前だと。ところが今、地方議員さんの方とか熱烈な松竹さんや鈴木さんを非難するツイッターを見ると、いや何言ってんだと。こんなに自由な組織はないし、私はなんでも自由に言っているという方もいらっしゃる。ところが規約を改めて見ると、五条の六ですかね、「なんでも言える」と書いてある。で、頭に「党の会議で」と。じゃあ逆に言うと党の会議の以外での発言は基本的にはお目こぼしをしてるだけで、今回のことのようにいきなり除名することが可能なシステムになっている。かつ一七条では、全国的な問題とか、あと党内の問題、これ一七条で党外に出してはいけないとある。そうすると、もうなんでも指導部、中央の胸先三寸でいつでも除名できると。今はフェイスブックとかSNSとかがあるので、みんなお目こぼししてるけれども、いきなり除名することができてしまうっていう組織なわけですね。(鈴木元著『さよなら志位和夫殿』94ページ)

 

 幸いにして(と言っていいのかどうかわからないが)、この規約違反の山下報告は、松竹氏による除名処分の再審査請求を「却下」すると決定した大会幹部団が大会代議員に「報告」したものであり、大会代議員による採決にはかけられていない。つまりこれは正規の党大会決定とは言えない。党指導部の横暴に対して、私たちは引きつづき〝建前〟である党規約第三条の民主集中制の基本原則を盾にして闘うことができる。

※:もっとも共産党における多数決制とはあくまで〝建前〟であって〝実態〟は異なっている。党内外からの〝実態〟を批判する意見に対して、指導部は〝建前〟を振りかざしてわが党は民主的だと強弁してきた。党指導部が革命政党に必要なもの、堅持すべきものとする「民主集中制」とはこのような二重構造を持つ。私は〝実態〟としての「民主集中制」は廃止すべき、〝建前〟としての「民主集中制」が実現されるなら存続してもよいと考えている。

 

管理人(2024/1/20)