大会決議案について最後に、「民主集中制」についてコメントしておく。
 

 民主的な討論を通じて決定されたことは、みんなでその実行にあたる――行動の統一は国民に対する公党としての当然の責任であり、それをどの程度まで実行しているかは別にして、どの党であれ行動の統一を党のルールとしている。
 同時に、多数者革命を推進する革命政党にとっては、民主集中制は、死活的に重要な原則である。行動の統一ができないバラバラな党で、どうして支配勢力による妨害や抵抗を打ち破って、国民の多数者を結集する事業ができるだろうか。

 

 「どの党であれ行動の統一を党のルールとしている」が、「多数者革命を推進する」ためにはどの党よりも〝厳格な〟行動の統一が必要で、それが「民主集中制」なのだと言いたいようだ。SNSで流出している「常幹メモ」でも「除名された人物に影響をうけたごく一部の議論に共通しているのは〝革命抜きの組織論〟と言うべき議論に落ち込んでいる」と強調されているから、そう考えて間違いないだろう。
 この主張が正しいとすれば、なぜ日本の政界で派閥のある自民党が多数をしめ与党のままで、派閥のない共産党は「多数を結集する」どころかごく少数の野党のままなのか? それについて指導部のいう〝組織論〟とやらは何も語っていない。
 

 わが党の民主集中制の原則は、外国から持ち込まれたものでなく、100年余の自らの歴史と経験を踏まえて築かれたものである。旧ソ連・スターリンによる干渉によって、党の分裂という危機に至った「50年問題」、旧ソ連、中国(毛沢東派)の覇権主義による激しい干渉との闘争で、わが党は民主集中制を党の生死にかかわる原則として打ち立て、全党の血肉にしていった。この原則なしには、今日の党は影も形もなかっただろう。わが党は、これからもこの原則をしっかり堅持し、発展させる。

 

 「わが党の民主集中制の原則は、外国から持ち込まれたものでな」いと言うが、外国からの持ち込まれたものとの闘争による産物であることは、ここに書かれていることで明らかである。しかしそのような覇権主義的干渉は現時点では存在しない。それらは共産圏(ソ連・東欧の共産党独裁国家群)の崩壊とともに歴史の遺物となったのではないのか? それらに対応した「民主集中制の原則」が引き続き必要な理由はどこにあるのか? しかも過去の干渉との闘いとは、あくまで共産党の世界からの視点のものであり、共産党の世界でのお話である。「外国から持ち込まれたものでな」いと言いながら、日本の政党政治からの必要性はちっとも語られていないのである。
 

 わが党を「異論を許さない党」「閉鎖的」などと事実をゆがめて描き、民主集中制の放棄、あるいはこの原則を弱めることを求める議論がある。しかし、党の外から党を攻撃する行為は規約違反になるが、党内で規約にのっとって自由に意見をのべる権利はすべての党員に保障されている。異論をもっていることを理由に組織的に排除することは、規約で厳しく禁止されている。

 

 これで革命政党に必要な民主集中制と組織内の民主主義の両立を語ったつもりになっているとしたら、あまりにもお粗末だ。「党の外から党を攻撃する行為は規約違反になるが、党内で規約にのっとって自由に意見をのべる権利はすべての党員に保障されている」――このようなダブルスタンダードがもたらす党運営の実践上の意味を党指導部は本当にわかっているのだろうか? 出版物やSNSで党指導部と異なることを言えば、〝党攻撃〟であり〝党破壊〟であり〝党を撹乱するもの〟であるとしながら、同じことを党内で言う権利がある!? 確かに規約上の権利はあるのかもしれない。だが、それを党内で主張しようとする人がどう感じるのか、党幹部たちは考えたこともないのだろう。
 〝党攻撃〟〝党破壊〟〝党を撹乱するもの〟と断定されたものと同じ意見、それを党内で言えば、〝党攻撃〟〝党破壊〟〝党を撹乱するもの〟ではなくなるとでもいうのか? これぞ共産党マジック! まともな感覚をもった人は、そうは考えないだろう。指導部から厳しい批判を受けるのではないかと考え、思っていても口にすることはないだろう。

 この間、「異論をもっていることを理由に組織的に排除する」ことは禁止されていても党指導部によって〝党攻撃〟〝党破壊〟〝党を撹乱するもの〟という烙印を押されればいとも簡単に排除されるという実例を私たちは目の当たりにした。

 それでもあえて意見する人がいるとすれば、それは〝もうこんな党は嫌だ〟と辞めたいと思っている人か、あるいは党のためだと思って処分覚悟で言える勇気のある人だけである。
 本来、少数意見や反対意見は、双方向・循環型の党運営にとって、かけがえのないものである。誰もが反対意見を述べる勇気を持っているわけではない。党指導部が党内民主主義を大事にしようと考えるなら、反対意見をあげてくれたことに感謝し、少数意見を広く公表してどのような受け止め方をされるか見定めるべきである。本当に民主主義的な組織なら、それだけで治まるところへ治まるはずであり、幹部が統制に乗りだす必要もないだろう。

 「党の外から党を攻撃する行為は規約違反になるが、党内で規約にのっとって自由に意見をのべる権利はすべての党員に保障されている」というダブルスタンダードは少数意見の持主の勇気を打ち砕いたり尻込みさせたりさせる効果しかもたらさないのである。

 

党のすべての指導機関は、自由で民主的な選挙をつうじて選出されている。これらの党規約がさだめた民主的ルールは、日々の党運営において厳格に実行されている。わが党が民主集中制を放棄することを喜ぶのはいったい誰か。わが党を封じ込め、つぶそうとしている支配勢力にほかならない。わが党は、党を解体に導くこのような議論をきっぱりと拒否する。

 

 今回あえて「自由」という言葉を使っていることには首をかしげざるをえない。党幹部たちは、反対者が語る自由に対して〝結社の自由〟を対置してきたはずだ。

 彼らはこれまで、全党員で党首を選べば分派ができるとか、党首に権力が集中するとか、規約に書かれてもいないことをあたかも守るべき決定であるかのように扱い、現状の組織運営方法を「民主的」だと自賛してきた。そこへもって、さらに「自由」だと言うのか? だがそうすることによって彼らは、少数意見、マイノリティーを尊重するという本来の自由、本来の民主主義の意味を実践的にはまったく理解していないことをますます露呈するしかない。


 党中央委員の選出は投票にかけられるが、一票を投じられるのは、大会に出席している代議員だけである。それ以外の99%以上の党員は、蚊帳の外、大多数の党員は無権利状態におかれているのである。
 中央委員の選出だけではない。議案についても同じである。例えば私が党大会でなんらかの特別決議をあげてほしいと考えたとしよう。できることは意見書を中央に出すだけだ。それを取り入れてもらえるかどうかは、意見書を受け取った担当の幹部次第だ。ここでもし私がもっと党内に影響力を与えようとして、他の支部の人たちや専門家といっしょに議案を練り上げて連名で中央に提出すればどうなるか? いうまでもなく「分派活動」として指弾されることになる。日本共産党のいう「自由で民主的」は、議案を提出する、意見をたたかわせて最終的に多数決をとるという普通の意味での自由や民主主義ではない。

 ――と、ここまで言っても、党の幹部たちは、それは〝革命抜きの組織論〟だとのたまうであろう。その〝革命〟でめざす「『人間の自由』こそ社会主義・共産主義の目的であり特質」だというなら、そのような自由を文字通りまずは党内で実現すべきである。そうすれば党が語る自由や民主主義が本物であると国民に理解してもらえるはずである。共産党のような〝厳格な〟行動の統一(=民主集中制)がなくとも、自民党は長年にわたって解体の兆しもない。〝厳格〟である必要はまったくない。党内に多数派形成の可能な批判の自由があり、少数意見・反対意見が尊重される民主主義があり、それでいて現実の政治闘争、選挙闘争では統一的に行動する、そういう(〝厳格〟ではなくて)〝高度な〟行動の統一こそが多数者革命をめざす革命政党に必要なのである。

 流出している常幹メモによると、「党大会かく乱策動は、過小評価はすべきではないが、過大に見るべきではなく、堂々と打ち破っていく」そうであるが、党大会の議題として明記されていないことまで代議員の見解の明確化を要求する方法が果たして「堂々と」と言えるのか? 幹部自ら先頭に立って反対派代議員が選出されないようにするやり方は、中国でやられている選挙の方法とまったく同じである。権力でもって全員一致させる「民主的」党大会だ。この「民主的」は「共産党的」という意味以外の何物でもなく、それは中国共産党のいう「社会主義」が「共産党独裁」という意味であるのと同じであって、そこに本来の意味での自由も民主主義も存在しない。

 ――自由とはいつだって反対者のための自由である(ローザ・ルクセンブルク)

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管理人(2023/12/16)