『日本共産党の百年』に書かれていないことで「新日和見主義」事件に続くのが、「新転向者」袴田里見氏の除名(1977年12月)とその後の党による一連のキャンペーンである。
除名に至るまでの経緯やさまざまな背景は省いて簡単に事実関係を示すと、袴田里見氏はまず、『週刊新潮』への手記掲載(1978年1月12日号から3回連載)の動きを察知された1977年12月に党を除名された。週刊誌発売前という異例の処分である。
党指導部は、その手記についてすぐさま『袴田手記(「週刊新潮」)総批判 真実は一つもない』を発表、その後さらにさまざまな論文や幹部の講演を加えて充実させた『新転向者論:袴田転落の本質』(1978/5)で徹底批判してみせ、加えてパンフレットを大々的に普及する〝袴田反共毒素一掃クリーン作戦〟なるキャンペーンがおこなわれた。その後に出版された袴田氏の『昨日の同志宮本顕治へ』※(1978/11)『私の戦後史』(1978/12)についても党指導部は、『袴田里見のウソと転落』(1979/4)、『党史の真実と転落者の役割:袴田里見の本の総批判』(1979/8)、『袴田転落問題と党史の真実』(1979/11)で応えた。
1983年になって袴田氏は再び『週刊サンケイ』に連載手記(1983年の5月12日号~9月15日号)を発表するが、それに対しても「赤旗」が逐一批判した。それらは『新転向者・袴田里見の末路:「週刊サンケイ」連載手記総批判』(1984/3)にまとめられている。その際「赤旗」が袴田氏のセクハラ行為等を暴露したことにより袴田氏の発言力はなくなり連載は終了した。
宮本顕治氏とともに戦前の「スパイ査問問題」の当事者であった袴田氏の発言には敏感にならざるをえなかったとはいえ、このように党としては「新日和見主義」事件以上の大きなキャンペーンを展開したのである。
当時の袴田氏の発言を読むと、「路線対立」という本人の意識とは裏腹に、実際は組織運営上の問題意識をもっていただけだったように思われる。「新日和見主義」事件あたりから進められてきた党の官僚化・中央集権化による弊害が明らかになってきた頃であり、それが労働者出身の古参幹部である袴田氏の抵抗の動機になっていたのではないだろうか。ただ当時の党指導部としてもある程度は問題意識をもっていたようで、その後党内の「官僚主義」批判ないしその克服を方針として掲げた。私が入党した頃も「官僚主義」をうんぬんする論文やパンフ等をいくつも読んだ覚えがある。だが、そういうものは基本的に党機関(専従組織)の問題であって、なぜ末端の私たちがこんなものを読んで学習しなければならないのかと疑問に感じたものだ。こうした組織改善の号令をかけなければならないほど、その時にはすでに党機関主人公の党組織に変貌してしまっていたわけである。
※:除名後の袴田里見氏の著作は、概して〝反党的〟なものではなく、党に在籍したままでは明らかにならなかったであろうことが書かれていて興味深い。例えば前に触れた「六全協」に「五一年綱領」が「完全に正しい」と書き込まれた経緯も明らかにされているし、後に明らかになった山本懸蔵粛清などに野坂参三氏が加担したのではないかという疑惑についても状況証拠を示している。
『資料館』の更新
1、党大会関連
・コミンテルン解散に関する同執行委員会幹部会の決定
・コミンテルン解散にする同執行委員会幹部会の通告
・日本共産党はコミンテルンの解散に同意し、日本に人民戦線をつくることを提案する――『解放日報』記者への回答――
・わが党の当面の要求(9回)
2、党幹部の発言(野坂参三)
・日本の共産主義者への手紙
・日本の革命的プロレタリアートの当面の任務
管理人(2023/11/11)