前回は、「51年綱領」のとらえ方について、宮本顕治氏の発言(1989年)が「この奥歯に物が挟まったような少々言い訳じみた説明」をしていることを指摘した。あの発言は、実際に当時の彼ら幹部がどのように捉えたかの説明である。彼がそのようにしか説明できなかった理由は、彼の言う「事大主義」にある。わかりやすく言えば、当時の国際共産主義運動の中にあった〝スターリン絶対主義〟である。宮本顕治氏は1988年にその分析をおこなっている。
 

 たしかに、党分裂後の徳田、志田、椎野らの実践と、いわゆる四全協後の活動は分派主義、極左冒険主義が特徴的だった。この極左冒険主義を重大な誤りとして指摘した六全協が、五一年綱領以来の綱領の個々の規定のすべてが正しかったとするのは、実態的には大いに矛盾する
 五全協での五一年綱領の採択は、国際的・国内的実態関係からみて、四全協での極左冒険主義の決定とその実践の総括と不可分のものとみなされるべきであったが、五一年綱領は文面的には極左冒険主義を支持するものとなっていない特徴があった。この実態関係のリアルな反映がなぜおこなわれなかったか。
 ここに、新たに必要とされる解明点がある
 四全協以来、極左冒険主義の失敗は明白であった。サンフランシスコ条約締結後の日本の政治情勢で、党活動の合法性を獲得できる条件が生まれており、党全体が公然活動に乗り出すための新しい転換が必要であった。しかも、五一年綱領の作成で果たしたスターリンの役割からみて、スターリン死後とはいえ五一年綱領そのものが欠陥品として論議の対象となる状況ではなかった
 六全協の政治方針としては、占領下での平和的革命論の否定は、極左冒険主義を不可避とするものでないとなっている。むしろ、五一年綱領の規定は正しいのだが戦術的に情勢や力関係を無視した指導から極左冒険主義が発生したとする立場と建前に立っていたのである。
 そこで六全協では、四全協以来の極左冒険主義の方針と実態、それについての五一年綱領の関係が一切、討議されなかった。(宮本顕治『五〇年問題の問題点から』―戦後初期論集3「まえがき」、強調は引用者)

 

 当時の幹部・党員らは、少なくとも「51年綱領」がスターリン自身の手になるものだと知っていたからこそ「完全に正しい」として一致したのである。それは多数派の「極左冒険主義」に批判的で「除名カンパニア」の対象ともなった少数派の党員たち、もちろん宮本顕治氏も例外ではなかった。スターリンの押し付けであることがわかっていながら、だからこそ正しいと信じて多数派も少数派も一致して「六全協」で「新綱領」として認めたのであって、そのことはソ連崩壊後のソ連共産党の公文書を調べずとも明らかなことである。
 スターリンの呪縛から解放され自主独立の立場を確立したのちになって「六全協」の決定が誤っていたと言うことはできるし、そうすべきである。だが、これを不正常だったとか、その決議案もコミンフォルムと相談して決めたおしつけだったからという理由で「新綱領」として認めた事実をなきものにするのは党史の偽造ではないか。このようなことが「歴史教科書」問題で精力的な論陣を張った不破委員長のもとでおこなわれたことは極めて残念なことだ
 新日本出版社発行の宮本顕治氏の「戦後初期著作集」にしても、「マルクス・レーニン・スターリン主義」という用語やブハーリン裁判、ハンガリー事件の評価など当時の宮本顕治氏の発言で、今からみれば誤っているものが取り除かれている。加筆修正はしていないと言うが、あったことを無きものにしたり削除修正したりするのならいいのか。

 「六全協」の後、ソ連共産党20回大会(1956年2月)でスターリンの後継者であるフルシチョフが、〝スターリン批判〟の秘密報告をおこない、そして資本主義体制と社会主義体制の「平和共存」や資本主義国での「平和革命」の可能性を認めた。その後すぐにコミンフォルムも解散(1956年4月)している※1。こうしてソ連共産党による「平和革命」へのお墨付きがあってはじめて、「六全協」決定を覆す「7中総」による綱領改定の表明(1956年6月)となったのである。ところが、『百年』ではそもそも国際共産主義運動にとって大きな転機となった〝スターリン批判〟とソ連共産党20回大会については何も書かれていない。また、宮本顕治氏の五〇年問題に関連するどの発言をみても、日本共産党が自主独立を確立する過程であったこの時期が〝スターリン批判〟とソ連共産党20回大会によって切り開かれたものであることを明確にしていない。この時期は、ソ連共産党の立場と、日本共産党が自主独立の立場を確立する方向性とが一致した時期であって、実質的な集団討議によって決められた「共産党・労働者党代表者会議の声明」(1960年)が綱領に準ずるものとして評価されていたのもそのためである。
 なお、コミンフォルムは解散したものの、コミンフォルムの下部組織で、資本主義国の共産党への資金援助機関であった「左翼労働組織支援国際労組基金」という秘密基金は廃止されずにソ連崩壊まで継続した。再統一後の日本共産党に関しても、党幹部であった野坂参三・袴田里見両氏がソ連の秘密資金を受領していたこと(1959~1963年)が『週刊文春』等で報じられた(1993年)。それに対して党も調査をおこない、野坂・袴田両氏はソ連の内通者であり、宮本顕治氏は承知していなかったという趣旨の反論もしているが『百年』では記載されていない※2。宮本顕治氏が知らなかったというのは事実であるかもしれないが、野坂・袴田両氏が高額資金を私的に着服していたとも考えられず、1963年まではソ連の秘密資金が日本共産党にも入っていたことは事実だろう。したがって、日本共産党が完全に「自主独立」を確立したのは、部分核停条約(1963年)をめぐるソ連共産党との論争以後であったと言えよう。

※1:コミンフォルムの後継組織として国際共産主義運動の情報誌『平和と社会主義の諸問題』(1958年創刊)がある。これには日本共産党からも編集委員を派遣していた。
※2:外国からの秘密資金流入疑惑は、自民党(CIAから)や日本社会党(ソ連から)などにもあったが、まともに調査して説明責任を果たしたのは日本共産党だけである。

今回の『資料館』の更新は予定外に増えた

1、党大会関係

・党活動の総括と当面の任務〔第六回全国協議会の決議〕
・12回党大会決議
2、重要論文(国際)
・主張 ソ同盟共産党第二〇回大会

・ソ連資金問題
・憶測からの根拠のない『文春』の妄断――日本共産党の立場は確固としている
・『週刊文春』のひきつづく反共記事とその破たん

3、重要論文(組織)

・袴田転落問題、なぜ――読者の質問に答えて
4、幹部論文(宮本顕治)

・綱領討議の問題点について*
・『五〇年問題の問題点から』の「まえがき」
・著作集『五〇年問題の問題点から』の「まえがき」再録にあたって
他に、既存の修正数カ所

*『資料館』のページに埋もれていたものを〝発見〟した