戦後、事実上再出発した日本共産党は、GHQによる日本の民主化・非軍事化のもとで、戦術としての「平和革命」の可能性を追求した。その後、GHQの「逆コース」が始まり、コミンフォルムが〝野坂理論〟を否定して「51年綱領」(『日本共産党の百年』では「51年文書」※)を日本共産党側に提示、当時の多数派(「所感」派)が中心となってそれを受け入れた。この「51年綱領」は「暴力革命不可避論」にたち、「朝鮮戦争にむかう米軍への日本国内での〝攪乱・妨害〟活動」としての武装闘争をもたらした。
朝鮮戦争の休戦、スターリンや徳田球一書記長の死後、党幹部らはこの「50年問題」を総括した。その際、戦術としての「暴力革命不可避論」である「51年綱領」を全否定して、単純に戦術としての「平和革命論」に戻ったのかと言えば、そうでないことは先に示したとおりである。
宮本顕治氏はのちに、「51年綱領」を全否定しなかった当時の「50年問題」の総括を擁護して次のように語っている。
……「五一年綱領」は、日本の革命運動の進路として、民族独立の重要性、民族解放民主統一戦線の結成の重要性を強調した点で、第六回党大会十八中総後の党の民主民族戦線のよびかけをうけつぐ積極面はありました。
しかし、革命の移行形態論には問題があったということです。だがそれは、平和的方法による革命への期待を批判しつつも、暴力革命路線を直接かかげたものではありませんでした。「五一年綱領」は、政治的な最大の力としては民族解放民主統一戦線ということを重視していました。これは正しかった。「五一年綱領」が革命の移行形態の問題で、AにあらざればBという、つまり平和的方法でできると考えるのはまちがいであるといったからといって、すぐそれなら暴力革命以外にないという結論をだしたかというと、そうではありませんでした。この点が「五一年綱領」の特殊性です。だから六全協では、極左冒険主義を排撃しながら、「五一年綱領」は正しいといったのです。この正しいといったことは、いろんな点で不備がありますが、しかし、基本的には、六全協が暴力革命路線をうけついだものではないということは、これで明白であります。
したがって、いわゆる革命の移行形態論として、「五一年綱領」のそれを暴力革命不可避論のわくのなかで総括することは、妥当性を欠くということが今日ではいえるわけです。(第18回党大会4中総冒頭発言「日本政治の根本的特徴と参院選にむけての活動」宮本顕治、1989/2/1)
この奥歯に物が挟まったような少々言い訳じみた説明をわかりやすくするために解きほぐしておこう。
まず、「51年綱領」が「平和革命」の戦術を否定し「暴力革命不可避論」にたっていたことを、「革命の移行形態」論の問題、つまり革命の見通しや心構えの問題に〝矮小化〟している。そうすることによって、その「極左冒険主義」を排すれば「51年綱領」は「正しい」としたのだと述べている。
さらに、そのように評価した理由として「51年綱領」が「暴力革命以外にないという結論」をだしていないことを挙げているが、これも無理がある。第一に、当時の世界で共産党のいう革命といえばレーニンあるいは毛沢東の「暴力革命」である。「平和革命」の追求は戦後の新しい状況下で生まれたもので、その「平和革命」を否定すれば結論は明白であって、わざわざ「暴力革命以外にない」と宣言するまでもない。第二に、「51年綱領」に書かれている「国民の真剣な革命的闘争」とは非合法闘争を指していることは、当時の多数派が中心となって主催した五全協決定などでも明らかである。
この苦し紛れの言い訳をはぎ取って言いかえれば、「暴力革命不可避論」を採っているからといって議会闘争などの平和的手段を排撃しているわけではないから「51年綱領」は全否定されなかったということである。おそらく、宮本氏自ら語っていたように「事大主義」を脱していなかった彼を含めた当時の幹部たちには、コミンフォルムに対する配慮や当時の論争の影響もあったのであろう。
いずれにせよ当時の党幹部らは「50年問題」の総括として、「51年綱領」の「革命の移行形態」論を退けるという形をとった。そのため、「61年綱領」で事実上の「平和革命論」を採ったにもかかわらず、「51年綱領」に対する批判として「敵の出方」論が強調されることになった。
権力側はその点をつき、共産党は「暴力革命」を捨てていないという攻撃を執拗に続けた。そして最終的にそれらを退ける目的をもって不破=志位指導部は現行綱領を採用し、「61年綱領」と「敵の出方」論を葬り去ったのである。彼らにとっては〝一石二鳥〟のつもりだったのかもしれないが、そもそも「敵の出方」論とは不破氏や志位氏が好んで使う「政治対決の弁証法」(=「階級闘争の弁証法」)を踏まえた議論にほかならない。
わが党は、いわゆる五一年綱領を正式に廃止したが、このことは五一年綱領のなかの、平和的移行の可能性を全般的に否定している見地をとらないことを意味する。わが党は、国際共産主義運動の一致した命題にもとづいて、人民の側の意向だけでこの問題を決定することはできないという、階級闘争の弁証法を知っている。(「第8回党大会中央委員会の綱領(草案)についての報告」から、強調は引用者)
共産党が政権に近づくにつれ、〝民主連合政府ができ、権力側からの暴力的な妨害行為があったら……〟といった仮定の質問が出てくるのは当然予想されることである。それらを「反共攻撃」と忌み嫌うのではなく、それらに対する原則的な対応を積極的に発信していく姿勢こそ党に求められる。不破氏がかつて語った「敵の出方」論に対する原則的な説明を引用しておこう。
……その後、反動勢力は、「敵の出方」論とは、相手の出方いかんではいつでも「暴力革命」に方針をきりかえようとするものだなど、わが党の見地をねじまげた勝手な「解釈」をふりまわし、日本共産党の「敵の出方」論イコール「暴力革命」路線だといって反共攻撃をしきりにやってきました。……この種の反共攻撃が反動派の常套の手口となっていることも考慮にいれて、党は、一九七〇年の第十一回党大会の決議で、「敵の出方」論が意味するものについて、よりたちいった内容の解明をおこないました。……
(イ)「社会の変革をめざすさいにも、人民の多数の意思を尊重し、かつ人民にとってもっとも犠牲の少ない形態を望み、追求するのが、共産主義者の一貫した原則的態度である。わが党はすでに民族民主統一戦線勢力が国会で多数をしめて、平和的、合法的に人民の政府をつくることをめざすことをあきらかにしている」。
(ロ)「しかし、そのさい内外の反動勢力がクーデターその他の不法な手段にあえて訴えた場合には、この政府が国民とともに秩序維持のための必要な措置をとることは、国民主権と議会制民主主義をまもる当然の態度である」。つまり民主的な政府ができた、ところがそれに従わないといって反動派が軍事クーデターをおこす、そういうときに、このクーデターを政府が鎮圧することは、社会秩序と議会政治をまもるための当然の措置だということです。
(ハ)「さらに人民の政府ができる以前に、反動勢力が民主主義を暴力的に破壊し、運動の発展に非平和的な障害をつくる場合には、広範な民主勢力と民主的世論を結集してこのようなファッショ的攻撃を封殺することが当然の課題となる」。相手が民主主義と議会政治をくつがえしてファッショ体制をつくり、革新的な運動の抑圧をはかろうという攻撃に出てくるときにも、これを世論と運動で包囲して、その企てそのものを失敗させるために全力をつくす、ということです。
(ニ)最後に結びとして、「敵の出方」の問題をわが党が強調する真意についても、次のように説明しています。「わが党がこうした『敵の出方』を警戒するのは、反動勢力を政治的に包囲してあれこれの暴力的策動を未然に防止し、独立・民主日本の建設、さらには社会主義日本の建設への平和的な道を保障しようとするためであって、これをもって『暴力主義』の証拠とするのは、きわめて幼稚なこじつけである」。
このように、わが党の立場が、革命の全過程を通じて、政治的民主主義の原則の擁護と堅持という点で一貫したものであることを、よくつかむことが大切で、ここに、問題の要をなす一つの大事な中心点があります。(不破哲三著『日本共産党綱領と歴史の検証』82ページ)
かいつまんで言えば、共産党は「暴力」で革命をすすめることはなく、逆に権力側からの「暴力」を防ぐために全力をつくすということである。実際に戦前、民主主義を求める人民に暴力を振るったのは絶対主義的天皇制の権力の側であって、日本政府としていまだにそれに対する謝罪も補償もなされていないのが実情だ。戦後も日本の入国管理局の暴力的・差別的体質が長年にわたって問題とされているのは、入管組織が戦前に日本共産党員らを虐殺した特高警察の体質を引き継いだまま抜本的改革がなされていないからにほかならない。暴力を振るう危険性があるのは、日本共産党ではなく権力の側なのである。
※:党が常任幹部会の決定として「51年綱領」を「51年文書」と呼称変更したのは、ソ連崩壊後にソ連共産党の文書が公開され、その中で「50年問題」がスターリンによる干渉工作であったことが明らかとなり、「51年綱領」もスターリンと、徳田球一書記長や野坂参三らによる「北京機関」とによって原案が作成されたものだと判明したからである(「いわゆる『51年綱領』という用語の変更について」宇野三郎、1993年)。だが、「おしつけ」とみられる経緯があったとしても、「51年綱領」が党の多数派によって討議され採択され実践されたその内実・経緯にこそ真実がある。当時の多数派が全員除名されて新しい党になったというなら話は別だが、「おしつけ」だったからといって呼称変更するのは、日本国憲法が「おしつけ」だから変えるべきだという主張と何が違うのであろうか。
(追記)『資料館』の更新について
今回掲載したのは以下のとおり。
1、党大会関連
・日本共産党 第八回大会の訴え
・七〇年代の展望と日本共産党の任務(11回)
・イタリアにたいする四ヵ国政府の内政干渉の策謀を糾弾する(13回)
※その他、この間の掲載分につき見つけた細かい不備を多数修正した。
管理人(2023/10/21)