「野党連合政権」と日米安保条約の廃棄との関係

 志位氏の「野党連合政権」論と松竹氏の議論は、「政権論」としてはほとんど何も異なるところはないのだが、党の「路線」としてみた場合は少し異なる。それを端的に示すものが、本書で志位氏が展開する「野党連合政権」と日米安保条約の廃棄に関する2つの発言だ。その1つは、日米安保条約の「段階的解消」論は採らないとする以下の発言である(下巻51ページから)。
 

 第一に、緊急の課題での一致点の共同は、安保法制廃止にしても、辺野古新基地中止にしても、日米地位協定改定にしても、核兵器禁止条約への参加にしても、日米安保条約の廃棄とは別の次元の課題であり、日米安保条約の枠内でも実現を追求すべき目標です。……
 同時に、これらの緊急の課題での一致点の共同で前進をかちとることができるならば、それは客観的には、現在の「異常なアメリカ言いなり」の日米関係を、部分的・限定的なものであっても、対等・平等な関係に近づける方向へと是正する意義をもつものとなるでしょう。つまり、これらの緊急の課題での一致点の共同と、日米安保条約の廃棄は「異常なアメリカ言いなり」をただすという点で、客観的には、向いているベクトルの方向は逆さまでなく、同じ方向と言えると思います。……
 第二に、日米安保条約の廃棄の国民的多数派をつくる努力をおこない、それを主張する日本共産党などの勢力をのばすことは、緊急の課題での一致点の共同を促進するうえでも、大きな推進力になるということです。……
 第三に、「二重の取り組み」とは、念のために言いますと、あくまでも「二重の取り組み」であって、安保条約の「段階的解消」論――「安保条約を解消するためには、いくつかの段階=中間段階が必要だ」――という立場では決してありません。

 

 志位氏はここで明確に「安保条約の『段階的解消』論」は採らないとしている※1。つまり、共産党が「国民連合政府」ないし「野党連合政権」に入っても、「日米安保条約の廃棄」の旗を降ろさないということである。志位氏は、「安保法制廃止」などの課題と「日米安保条約の廃棄」とは「向いているベクトルの方向」が同じだから矛盾しないと言う。
 この点に限って言えば、私は志位氏とまったく同じ意見である(ただし「連合政府」への入閣は条件によってはありうるが、基本的に入閣すべきではないと私は考えている)。そしてこの立脚点からすれば、松竹氏の「核抑止抜きの専守防衛論」の主張は、たとえそれが一時的だと主張しても「日米安保条約の廃棄」の旗を降ろす安保条約の「段階的解消」論にほかならない。これは松竹氏の議論への明快な批判になる。にもかかわらず党指導部がそれをしないとすれば、考えられる理由は2つ。
 1つは、以前にも述べたが、いずれ「安保廃棄」の段階論を採ることがありうると考え、指導部が自分の手をしばりたくないということ。

 もう1つは、批判が党指導部自身に跳ね返ってくることを避けたいということ。これまで否定してきた「段階的解消」論を採ることが綱領とは相容れないものへの逸脱・転換とみなすなら、自衛隊の「段階的解消」論との整合性が取れなくなるからだ。

 もう1つの発言は、安保条約の「段階的解消」論を採らないことを支える根拠となっている(と私が考える)以下の部分である(下巻74ページ)。

 

当面する野党連合政権にせよ、民主連合政府にせよ、日本共産党の議員が、連合政権(政府)の閣内に入った場合には、当然、政府の憲法解釈に従うことになります。つまりかりに自民党が質問してきた場合には、閣僚としては「自衛隊=合憲」という答弁をおこなうことになります。(注)
(注)『綱領教室』の記述の訂正……2011年11月におこなった『綱領教室』の講義では、民主連合政府の閣僚としても「自衛隊=違憲」論を表明すると説明しています(第3巻77ページ)。これは、党としての憲法判断と、連合政権としての憲法判断の関係が未整理の段階でのものであり、訂正しておきたいと思います(強調は引用者)。

 

 ここで志位氏は、「日本共産党の議員が、連合政権(政府)の閣内に入った場合」に予想される質問に対する答弁に関して、「党としての憲法判断と、連合政権としての憲法判断の関係」の理論的な?整理によって以前の判断を「訂正」している。ただし「訂正」前後で条件が異なっている。
 「訂正」前は、「憲法第九条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる」「民主連合政府」の閣僚の場合である。つまり、究極目標である自衛隊解消の手続きを開始するまでは政府としては「自衛隊=合憲」論とせざるをえないが、閣僚はそれに縛られなくてよいという判断だった。当初、政府としても閣僚としても「自衛隊=違憲」とみなしていたが、この判断を180度変え「自衛隊=合憲」とし、党としてはそれに縛られず「自衛隊=違憲」であると「訂正」した。この「訂正」自体は間違いではない。これまでの保守政権と自民党の閣僚との関係と同じである。松竹氏はこの部分について「あまりにご都合主義」と批判する(たとえば『シン・日本共産党宣言』63ページ、98ページ)が、「民主連合政府」は究極であれ自衛隊解消をめざす政府なのだから、そのような批判は妥当性を欠く。
 しかし志位氏はこれを一歩進めて、「自衛隊解消」を目標にしない「野党連合政権」の場合にも当てはまるとした。こうして閣僚になった共産党議員は「野党連合政権」の政府の判断に従うとする一方、党としては、どんな政権の判断にも縛られないことを明確にしたのである。これは「向いているベクトルの方向」が同じとは限らないため、「ご都合主義」という批判を招くだろう。この場合の松竹氏の解決策は右向きで、党としても「自衛隊=合憲」論を採るということだが、私が考える解決策は逆向きで「野党連合政権」に共産党議員は入閣しないということだ。

 なお「野党連合政権」は、「戦争法の発動や海外派兵の拡大など、9条のこれ以上の蹂躙を許さない」という一致点であるため、党として憲法9条護憲の旗をかかげることは、この政権が「向いているベクトルの方向」と同じである。「憲法9条護憲」の主張と「自衛隊の解消」の主張は完全に一致するものではないため、「段階的解消」論に従い「自衛隊の解消」を掲げない限りにおいて、松竹氏の「あまりにご都合主義」とする批判(たとえば『シン・日本共産党宣言』63ページ、98ページ)はあたらない。
 一方で、この(理論的)修正を、上述のように「日米安保条約の廃棄」に適用した場合にはとともに、党として日米安保条約の「段階的解消」論を採らないとすることによっては、志位路線の右傾化の歯止めになりうるし、今のところはそうなっている。「向いているベクトルの方向」も同じだから「ご都合主義」批判も退けられる。そして、これが志位路線と松竹氏の議論を今のところ分け隔てているのである。
 だが、この判断は一方で「野党連合政権」に共産党議員が入閣できる基準を緩めることにもつながる。「さしあたって一致できる目標の範囲」を切り縮めたどんな「連合政府」にも入閣することが可能となるからである。そうなると「ご都合主義」批判はますます強まるだろう。それを避けるためにも、そして党指導部のさらなる右傾化を止めるためにも、「野党政権」への関与(入閣・閣外協力・選挙協力・一方的選挙協力など)の基準を明確にする必要があるだろう※2。

 

※1:党の自衛隊政策である「段階的解消」論では、第一段階として「日米安保条約廃棄前の段階」を想定しており(第22回党大会決議)、これと「さしあたって一致できる目標の範囲」の統一戦線という政権論を合わせて考えれば、現行綱領は日米安保条約の「段階的解消」論だという解釈も可能で、松竹氏の議論は現行綱領と相容れないとは言いきれない構造になっている。"松竹氏の議論は現行綱領と相容れない"と堂々と言うためには、党が自衛隊の「段階的解消」論を取り消す"先祖返り"をするしかないが、党指導部は、そこまではしないだろうから結局黙っているほかないのである。

※2:私がこの政権に入閣すべきでないと考えるのは「ご都合主義」批判が主要な理由ではないことは付け加えておきたい。この段階での「自衛隊活用論」は、日米安保条約第5条の規定「共同防衛」とセットになった「有事対応」となる問題を抱えていることが第一の理由である。また、「野党連合政権」の態度に党は縛られないとしたところで、閣僚となった共産党議員は「野党連合政権」に責任を負うのであり、「野党連合政権」に否定的行動があれば党に影響せざるをえない。綱領の根幹にかかる部分を否定するような「野党連合政権」の決定・施策が行われた場合、党として政権に責任を負うべきでないということが第二の理由である。党は「民主連合政府」以外の「さしあたって」政権には閣僚を送らないことを原則とすべきである。

 

管理人(2023/9/10、9/12修正