「50年問題」の関連文書として、第6回党大会の「決議要旨」と「規約」、第7回党大会の「決議 統一と団結にかんするよびかけ」を掲載した。ついでに「日本人民共和国憲法(草案)」について、国会図書館のホームページに掲載されている資料ページにリンクを貼っておいた。また「民主連合政府」関連では、「民主連合政府綱領についての日本共産党の提案」を中心に第12回党大会の3文書を掲載した。

 「決議 統一と団結にかんするよびかけ」は党大会の名による「50年問題」の真摯な自己批判の表明であり、「50年問題」で党を除名・追放されたり党を離れることになった人たちに向け「心からの友愛と党への復帰」をよびかけた文書である。志位指導部は中途半端に「50年問題」に学ぶのではなく、党がいま「50年問題」と同様の危機にあるとみなして「新日和見主義」事件以降のスターリン主義的な"民主集中制"にもとづく組織運営について真摯に自己批判し、処分されたり離党した人たちに復党をよびかけるべきだろう。そうすれば「130%の党」も多少は現実的目標に近づく。組織運営の民主的改革が伴うならば、青年学生分野での影響力拡大へのプラス要因にもなるだろう。

 ――と言ってみたものの、現実の指導部は「革命政党」を「もとから変える党」に言い換えるだけで締めつけ路線に変わりはなく、自己批判など望めそうにない。

 

「民主連合政府」と綱領との関係
 日本共産党は戦後、1946年6月29日に発表した「日本人民共和国憲法(草案)」にみられるように最終的には「人民共和国」をめざしていた。これは、共産党が入閣する「民族民主統一戦線政府」が、党が掲げる「君主制の廃止」を含む諸課題を遂行する革命政府になることによって達成するものであった。
 党が「さしあたって一致できる目標」に基づく暫定政権構想として提唱した「民主連合政府綱領についての日本共産党の提案」が発表されたのは、国内では社会党(社民党)と共産党などが与党となった革新自治体が全国に広がった革新高揚期であり、国際的には、1973年9月にチリ人民連合が米CIAが介入するクーデターによって崩壊した直後である。ここから、自民党による「サンケイ新聞意見広告事件」などの反共キャンペーンにさらされる。現実に存在する「人民共和国」は共産党独裁であることが攻撃材料とされたが、党は臨時党大会を開いて綱領に準ずる文書として「自由と民主主義の宣言」を採択してそれに応えた。その後1979年の衆議院選挙での共産党の躍進もあったが、世界に衝撃を与えた1979年末のソ連軍によるアフガニスタン侵攻が日本共産党の努力を最終的に打ち砕く。翌1980年1月には早くも共産党を除く政権構想である「社公合意」が結ばれ「民主連合政府」構想は事実上破たん、以後の国会運営では、日本共産党を除く状況が続くことになる。
 ソ連の「覇権主義」に反対してきた自負のある党指導部にとっては、ソ連軍のアフガニスタン侵攻は、“とばっちり”にほかならなかった。そのため「自由と民主主義の宣言」を採択したような綱領レベルでの対応はなされず、『日本共産党の百年』にも書かれているように、社会主義の生成期論(1977年)は見直されることはなく、「民主連合政府」構想自体も、もともと暫定政権構想であったにもかかわらず維持された。
 その後「民主連合政府」は、現行綱領の改定の際に、暫定ではない統一戦線政府(=革命政府になりうる)の位置に格上げされている。その一方で、新たな暫定政権として「現在の反動支配を打破してゆくのに役立つかぎり、さしあたって一致できる目標の範囲」で、「民主連合政府」の課題の一部を担う統一戦線政府(=革命政府ではない)がありうることも規定されている。それが最初に適用されたのが「戦争法=安保法制廃止の国民連合政府」の提案(2015年)である。松竹氏の議論はここに位置し、政権のある程度の存続をみこした安全保障政策をもつべきだとするものだと私は理解しているが、党指導部は、これを「暫定」ではなく綱領の根幹に据えようとするものだとみなして批判しているようだ。
 ここで注意すべきは、従来の「民主連合政府綱領」がそのまま格上げされたのではないということである。大企業の「人民的統制」や「国有化」は、「民主的規制」に変わり、自衛隊の解消は先送りされるなど、より穏健な社会民主主義的政策に置き換かえられ、従来の共産党の立場を残すものは、事実上日米安保条約の廃棄だけになっている。そのため、古くからの党員を納得させるためには、「国民連合政府」はどうしても「暫定」でなければならず、暫定でないことを認めることは明らかな「転換」だ、と今のところ指導部はみなしているのかもしれない。

 

管理人(2023/9/6)