また前回から2週間以上空いてしまったが、私はまだ『日本共産党の百年』も『不破哲三氏への手紙』も読了していない。『日本共産党の百年』については、ツイッターの「あいかわらずな」さんの「note」も併せて興味深く読ませていただいている。
 

 昨日、『さざ波通信』併設の『日本共産党資料館』に志位和夫氏の往年の論文「変節者のあわれな末路」(1986年)をアップした。これはいわゆる「伊里一智」事件の際に、担当者であった若き志位氏が書いた論文である。
 「伊里一智」事件といえば、私は入党まもない時期で、"何か違うぞ"と心がざわついたことを覚えている。規約で「多数決で決定する」としている以上、党の決定の過程では、複数の議案があげられ、賛成多数なら可決、少数なら否決という形になっていると考えるのが普通である。当時の私はそう考えていたし、今でもそれが普通だと考えているが、「伊里一智」事件での党中央の対応はそうではなかった。そしてその後私自ら経験した党指導部の対応も。
 当時は知らなかったが、彼と意見を同じくした同志たちは、分派活動の容疑で1年にわたる査問を受け、そのなかから除籍・離党者も出ている。党員は個人として批判意見をあげてもよいが、連名であげたり、他の党員に働きかけたりすることは「分派活動」として認められていない。それ自体「多数決で決定する」という規定と矛盾するし、そのような運営では、所属組織内や大衆団体内で同じ批判意見をもった党員が複数いて意気投合したりすれば、「分派活動」の容疑がかかることになる。それでいちいち査問(調査)などやられたら、党指導部に対する批判意見をもつことはあっても、それを党の会議等で言うこと自体がタブーとなってしまう――というか、実際にそうなっている。

 伊里氏は、支部から選出された代議員の資格をはく奪した党中央の対応を不服として党大会会場でビラまきをし、のちに『気分はコミュニスト』を出版して党を除名となる。党指導部はそれに対して『投降主義者の観念論史観』で批判してみせた。
 志位氏は論文で、伊里氏の主張「理論派閥の容認」「党外出版物での批判の容認」「横の交流拡大」の3つを民主集中制に反するものとして批判。伊里氏は、派閥を「理論派閥」と「行動派閥」に分け、「理論派閥」は認められるべきだとしたが、志位氏はどちらでも同じことだと断罪した。理論上の派閥を認めようとする考え自体を、志位氏は否定した。

「科学的社会主義は一つしかないわけではなく」などというのは、科学的社会主義の客観的な真理性を否定する相対主義の見地にほかならない。

 

 党指導部は、党内で議論があっても、「真理性」という概念でもって意見の一致が可能であるとし、党大会時にはそれを最大限追求した。かくして東京都大会で伊里氏の所属支部から独自の決議案が提出されること、あるいは大会で批判意見が出ることすら許されなかった。党指導部は「真理」の体現者であり、党規約が改定されて20年以上経過した今なお、古い常任幹部のあいだではそのように扱われている。松竹・鈴木両氏の除名問題でも、『投降主義者の観念論史観』収録論文レベル以下の、通り一遍の論文で一方的な決めつけをおこない、それで解決したかのように振るまっているのは、古い幹部たちの慣習以外の何物でもない。
 また「党外出版物での批判」については、志位氏は「党内の問題の党外へのもちだしを禁ずる党の規律」として規約に反するものとする。旧規約では、「国際的・全国的性質の問題について、中央機関の意見に反して、下級組織とその構成員は、勝手にその意見を発表したり、決議してはならない」という禁止規定もあったため、こちらも議論の余地はなかった(新規約では、この後者の禁止規定はなくなり、「党の決定に反する意見を、勝手に発表することはしない」という自覚的規律として規定されている)。
 最後の「横の交流」については、もとから自覚的規律の問題である。実際、現在は「真ん中世代」の取りくみなどで「横の交流拡大」は全党で推奨されているくらいだ。だが、当時の志位氏はこれが規約で禁止されているかのように絶対否定してみせた。
 

だいたい「伊里」自身、党大会にむけた全党討議が開始される以前から、それこそ「無制限」に勝手な「横の連絡」をとっていた。そして彼がおこなった「横の連絡」が分派の形成につながっていった事実こそ、それが、民主集中制とは絶対にあいいれいものであることの生きた証明となっているのである。

 

 このような頭の固い常任幹部からの「指導」はご免こうむりたい、これを読んでそう感じる党員は多いはずだ。

 

管理人(2023/8/28)