戦前の党の理論家かつ指導者であった野呂栄太郎が、コミンテルンで検討されていた「政治テーゼ草案」(1931年)に批判的であったというエピソードについて、『日本共産党の百年』では次のように書かれている(6ページ)。

 

 「(32年)テーゼ」の決定は、天皇制の役割を軽視して、一時、党内に混乱をもたらしていた「政治テーゼ草案」の誤りをただしました。「政治テーゼ草案」の内容は、31年秋に、コミンテルンの関係者と会合した党員がもちかえったもので、日本の当面する革命を社会主義革命の方針に転換せよという誤った指示をふくんでいました。その内容を知った野呂栄太郎は、賛成できない旨を党の会議で表明しましたが、野呂は意見をふりまいたり、党外にもちだすようなことは、いっさいしませんでした。

 

 この記述は、明らかにこの間の除名騒動の当事者、松竹伸幸氏と鈴木元氏への当てつけのつもりで書かれている。いちいち指摘するのも恥ずかしくなるくらいだが、これは党の決定ではない「草案」への批判だという点でそもそも比較にもならないし、当時は絶対主義的天皇制のもとで言論の自由はなかったという条件も都合よく無視されている。
 ちなみに前回の党史『日本共産党の八十年』(2003年)以降で党幹部が党史について語ったものに不破哲三著『日本共産党史を語る』(2006年)があるが、そこでは、同じエピソードが次のように語られていた。
 

 ここで一つ面白いエピソードを紹介しておきましょう。さきほど、コミンテルンの一部の幹部が日本革命の戦略論で動揺して、31年に社会主義革命論が持ち込まれたことを話しました。野呂のある友人の回想ですが、その〝新しい〟戦略方針を野呂に見せたところ、野呂が「これはおかしい」とただちに言ったというのです。自分たちの日本資本主義研究の成果にてらしても、こういう戦略が正しいはずがない、と考えたのでしょう。……(中略)……野呂に代表される日本の党の理論的な水準の発展ぶりが、このあたりに示されているように思います。(上巻61ページ)

 

 ごらんのとおり、このエピソードは、「日本の党の理論的水準」の高さを示すものとして語られており、「党外にもちだす」などといった文脈では語られていない。志位指導部にとっては、戦前の党指導者のエピソードなど、松竹・鈴木両氏の除名を正当化するための材料でしかなく、それ以外の価値はないようだ。
 

管理人(2023/8/3)