2025年も終わろうとしている12月30日、不破哲三氏が95歳で亡くなったとの訃報が入った。戦後、故宮本顕治とともに日本共産党の黄金時代を担ったこの最後の大物共産党幹部の死に、心からの哀悼を捧げたい。
 周知のように、戦後の日本共産党は宮本顕治という人物の名前と不可分であり、彼なしに戦後の党のあのような発展はなかっただろう。彼は、いわゆる「50年問題」を克服して以降、党を政治的に引退するまで、幾多の試練を経ながらも、まぎれもなく共産党のナンバーワンでありつづけ、その不動の指導者だった。だが、それに次ぐ指導者として誰もが思い浮かべるのは、不破哲三だろう。
 共産党の成長と安定のためには、党活動や大衆運動と並んで、理論活動が決定的に重要であることを理解していた宮本顕治は、東大出身で、理論肌の上田耕一郎と不破哲三(本名、上田健二郎)の兄弟を幹部として抜擢した。兄の上田耕一郎は、党の副委員長としてより自由な立場から理論活動に従事し、書記局長、ついで委員長となった不破哲三は、党の組織指導の傍ら、より正統的な立場から理論活動に従事した。若いころは、宮本の立場に批判的な構造改革派に近かったこの兄弟を理論幹部に抜擢したのは、この兄弟の理論的能力の卓抜性もさることながら、宮本の自信と度量の大きさの現われであったと言えるだろう。
 1970年代、不破は、宮本委員長のもと、若き書記局長として、党の躍進と黄金時代を築くうえで極めて重要な役割を果たした。理論は明快で、演説は理路整然としてわかりやすく、国会質問も資料にもとづく鋭いものだった。修羅場を潜り抜けた戦前の非転向党員あがりの宮本はいかにも強面の政治家という感じだったが、常に笑顔を絶やさない柔和な表情の不破は、共産党のイメージを大きく変えた。彼は戦後民主主義を象徴する党幹部だった。
 しかし、1980年代から90年代前半にかけて、それまでの順調な党勢の成長に歯止めがかかり、ジグザグの軌道を描きながら、全体として停滞ないし低落の様相を示しはじめたとき、宮本指導部は党内からの批判を強権で抑え込み、大衆団体にもしばしば介入して、異論を封じ込める路線をとった。党勢拡大を何としてでも回復しようと、「拡大月間」を年に何度も実行し、党活動家を疲弊させた。党内の不満はしだいに高まり、よりリベラルに見えた不破への期待は高まったが、不破はきわめて慎重に行動し、宮本が肉体的にも衰えるまで決定的な行動をとらなかった。
 宮本が明らかに衰えていた1994年の第20回大会で実質的な指導権を握ると(宮本の正式引退は、1997年の第21回大会)、これまでの強権的な党内体制を徐々に緩和し、しばしば対立してきた党外の左派系知識人とも和解の道を探るようになった。1998年の参議院選挙で過去最高の820万票を獲得したことは、不破共産党の一つの頂点を示すものだった。自信を深めた不破は、党綱領や規約などもあいついで大幅改定して、宮本的な革命色をしだいに取り除いていって、名実ともに宮本共産党を不破共産党へと変えていった。
 しかし、それの栄光は長続きしなかった。不破共産党の1990年代後半の大量得票は基本的に、1990年代前半における社会党の政治的裏切りによって行き場を失った戦後革新票が共産党に一時的に流れ込んだおかげだったが、不破哲三はそうは考えず、1960~70年代のような革新高揚期の再来とみなした。
 1993年の政治改革で衆議院選挙に導入された小選挙区制の政治的効果によって、中小政党は徐々に衰退ないし周辺化に追いやられることがかなりの確度で予想されたにもかかわらず、不破はそれに対抗する具体的な措置を講じなかった。われわれ『さざ波通信』は、新社会党や市民派の政治家、社会党の中の良心派などと協力して、保守とネオリベラルの両方に対抗する護憲と革新の第三極を作るよう主張し続けたが、共産党が連合をめざしたのは民主党などのネオリベラル政党だった。
 今日、完全に衰退しつつある共産党は今さらながら、社民党、新社会党、れいわ新選組などとの共闘を目指しているようだが、遅すぎたと言うべきだろう。共産党も社民党もまだ多くの得票と議席を得ていた時期、そして新社会党でさえまだ議席を失っていなかった時期に、そうした共同の政治的陣地を作るべきだったのだ。だがその機会は逸せられた。不破哲三は優れた理論家であり、また優れた政治家でもあったが、決定的な瞬間に決定的な決断をするだけの政治的見識と勇気を欠いていた。
 不破は非常に器用な人物で、党の指導全般だけでなく、大衆運動の問題、『資本論』の研究、現代政治、外交、ソ連の歴史、レーニン論など、どんな問題でもそれなりのレベルのものを書いたり語ったりする能力があり(もちろん多くの優れた秘書に支えながらであるが)、そのおかげで、不破が党指導部の全権を握って以降、自分に代わる理論幹部を育てることに不熱心だった。その点が、常に後継者の育成に力を入れていた宮本と異なる点である。現在、志位和夫が、不破のひそみにならって『資本論』やマルクスの解説本を書いているが、不破に比べるとはるかにその精緻さで劣る。そして、志位以外を見ても、志位程度のマルクス主義も語れない小利口な役人ばかりになっている。
 不破は、2006年には、まだ完全に衰える前に、議長職を退いて志位和夫に指導権を譲り、社会科学研究所の所長として、大好きな『資本論』の研究などで余生を送った。最後は、自分が作り上げた共産党が徐々に衰退していくのを横目に見ながら、衰えていく自分の体と戦っていた。その間、志位共産党は徐々に強権主義の方向に舵を切っていった。1980年代の宮本と同じく、党勢の衰退を党内の統制強化で乗り切ろうとしているのである。不破は、自分が克服しようとした党内体制に戻りつつあるこのような動きをどう思って見ていたのだろうか? 今となってはわからない。
 不破哲三は冒頭で述べたように、最後の大物の共産党指導者だった。心から哀悼の意を表する。

 

2025年12月30日(S・T)