察しても、優しくしない人。 | マイノリティのお話

マイノリティのお話

ずっと人前で自分を出せない、自分でいてはいけないのだと思ってました。カウンセリングを受けたら、育った環境に原因がある事がわかりました。

私以外全員ASDだった。

ASDについて勉強したら、今まで見えてなかった事が見え始めた、そんなブログです。

勝手にリブログしまっすー。

 

ちょっと前の記事にも書いたように、私は強めのADHD寄りなので、一回でブログ記事を読み解く事ができない。いや、「できない」というのを止めてみよう。「一回で読んで理解しようとすら思っとらん」が正解かな。特に、ここ数年お互いのブログを読みながら「そやなー!せやんなー!」と言い合う、しのばさん、ともさん、ぬこさんのブログは、「ツボ」がそこかしこにあるので。そもそも1回で読んで理解しようとすら、思っとらん!←えらそう。そんなわけで、開き直ったら、こういう方々の記事は、最低2回、多い時は5回ほど読み返して、1回目には気が付いてなかったポイントが見えてきて「はぁ!そうか!」となったりする。

 

世の中「一回で読んで理解するのが正しい」とされる風潮だけれど。いや、ええやろ。「一回で読んで正しく理解しましょう」というのが目的の問題ならともかく、そうじゃない場合は、ええんちゃう?と思う。もちろん、10回読んで、10回違う事にコメントしたら、面倒くさい人なので。それは、出来るだけせんように抑えとる(2回ぐらいしてるか・・・)。

 

は!脇道にそれました。これも、ADHD寄りのお家芸です。

 

そんなわけで、ぬこさんの記事を1回読んで「そうやんな~」と思った時に、「でも、これはもう一回後で読まなあかんやつやなぁ」と思って寝かせておき、もう一度読んだ時に「あー。なんか、何かが私の中で引っ掛かる。けど、なんやわからん。もう一回後で読もう」となり、別の事をしながらもう一回読んだので「読んだけど、全然読んでなかった。あとでちゃんともう一回読もう」となり・・・そんなこんなで5回ぐらい読んでしまった(笑)。

 

 

 

 

以下抜粋

『俺は何もここまでやってくれって言いたかったわけちゃうねん・・・ぬこさんが信用できないから言ったわけやなくてやな・・・一言ぬこさんから”大丈夫”って言ってもらえたらそれで良かったんや・・・

 

 

ぬこさんのこの記事は、自分自身が見えてないタイプの人は、自分が不安だったり不快だったりする時に、その原因を探るのが下手で、屁理屈みたいなグダグダだったり、他責の理由あれこれだったり、あーいえばこーいう口答えみたいな事を言うてみたり、このケースには当てはまらない一般的過ぎる常識当てはめてみたり・・・まぁ、ぐだぐだ言いガチである。

 

もちろん、普通の人でも「不安や不快感」を感じると「何等かの理由を探して断ろうとする」のだけれど。それが頻繁過ぎるこのタイプの人は、「普通に考えたら、もうそれ、屁理屈・こじつけ・八つ当たり・責任転嫁でしかないやろ」と、蒸気を逸する状態でも、この「グダグダ」をするのが特徴やと思う。

 

言うならば、疲れてて眠たくてでも遊びたくてでも眠たくて疲れてて・・・という状態の幼児が「ぎゃおぉぉぉぉす、えぐっえぐっえぐっ、いやぁぁぁいやぁぁああ、いややあああああ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁあああ゛ーー」に入り。お母さんが「ええ?眠たいん?」「ぢがぅううう、ねぶだぐないぃぃ、あそぶぅう」「遊ぶの?ほんなら、これで遊ぶ?」「ちがうぅぅ!ごんなおもちゃいややぁあああ゛」「え?こっちのおもちゃ?」「ちがうぅぅぅ!」「もしかして、おなかすいてる?」「ぎゃぁああああ!ちがうぅぅぅううう!」のサイクルに入ってる状態である。

 

ほとんどの場合、最後まで自分の中の不安や不快感の本当の原因に気が付けず、自分が勝手に思いついた屁理屈・こじつけ・責任転嫁が真実だと思い込んでしまうパターンである。

 

でも、このぬこさんの義父さんの場合は、ぬこさんが全屁理屈をまともにねじ伏せた後で「一言ぬこさんから”大丈夫”って言ってもらえたらそれで良かったんや・・・」と、本当はこうしてほしかったんです、別に、全部の屁理屈不安の説明をしてもらいたかったわけではないんです・・・ごめんやで、と言えた、と。

 

つまり、幼児が「ごめん、お母さん。ホンマは、早く添い寝・ポンポンしてほしかっただけやってん」と言えた・・・という事なので、確かにスゴイと思う。

 

 

 

 

さて。ここからは、私が後で「なんかモヤっとするのは、なんやろう」と自分の中で整理整頓してみた状態です。

 

 

 

てか、ぬこさん、義父さんにそう言われて「なんだー。そっかぁ。それなら、そうと言ってくれたら、大丈夫って言ったのに~」と思ったんだろうな、と推測するけれど。そこがスゴイ。

 

 

この、グダグダ。私は、もう何万回と経験している。おかん、妹ちゃん、リズ・・・諸々。

 

 

例えば、おかんや妹ちゃん。自分の不安や不快を、しょっちゅう原因不明で、私にグダグダ言うてくる。その状態になると、私は、「ああ。これは、私に、大丈夫だって!」と言うてほしいんやろうな、と推測できる。経験上。この辺が、多分、ぬこさんと私の違いだと思う。

 

そして、ここからも、ぬこさんと、私は大分違う。

 

「大丈夫って言ってほしいんやろうな」と気が付いたところで、私は思うのだ。

 

 

 

知らんわ。お前自身の不安感・不快感を、なんで、私が解消せなあかんねん。大丈夫か大丈夫じゃないかは、自分で決めて、自分で解消せえよ。お前の心の不安定さを、親でもない私が解消してやる義理はないねん。

 

 

 

と。ここ数年、割と頻繁にこう思う事が多い。やはり親が高齢だったり、離れて暮らしていたりすると、大きな決断を迫られる事が多くなる。いや、細かい事でも決断をしなければいけない事がある。一般的に、人間はみんな老いていくものだし、親兄弟親戚がいる人達の多くは、ある程度、通っていく道なのではないかと思う。ケアマネさんや、その他いろんな相談サービスの方々が、「難しいですよね」と言いながら、「こんなケースもありますよ」「こんな風な事はよくありますよ」と教えてくれるけれど。最終的には、「家族」が決める事となる。

 

我が家の人々は、もともと「決断」が、ものすっごーーーーーーく苦手な人々である。そもそも自分のコアの部分がスッカスカのがらんどうだったり、はりぼてだったりするのに、外側だけ、人の評価や虚栄心・プライド・見栄・承認欲求で固めたこじらせタイプの人なので、「私はこう思う」というのが自分の芯からくる事がほとんどない。「世間はこうしてる」とか「この間、誰それがこう言ってた」とか「前に、あんたがこう言った」とか、外側からの情報だけに頼っての決断は、人間の老いや生き方など、本質にかかわる時には、割と役に立たない。だって、「最終的には、ご家族次第ですね」ってなるから。

 

で、そんな「決めごと」がある度に、おかんや妹はグダグダ言い、「大丈夫だよ!」を私に求める。

 

 

 

私は、この不安定すぎるこじらせ乙女二人を支える度量はないし、今後、ずーっと、私が不安をぬぐってくれる人だと認識されても困るので。「大丈夫だよ」と言ってほしいのだろうと気が付いていても、全然気が付いていないフリをするし。何が何でも「大丈夫だよ」を言わないようにしている(笑)。