【コンサート】11/21(土)「1×1=∞: 神田将・中井智彦~在りし日の歌~」(前編) | あずさの時々観劇レポ

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大人になってからのミュージカルファン。神田恭兵さん、中井智彦さんのファンです。どうしても書き溜めておかないとと思った舞台の観劇レポを時々綴ります。

 中井智彦さんのライフワーク、中原中也の一人舞台にエレクトーン奏者の神田将さんが演奏をしてくださるという夢のようなコンサートが11月21日(土)、豊洲シビックセンターホールで開催されました。

 

 1週間前まで『ビリーエリオット』の舞台に立っていた中井さんですが、配信ではなく生の有観客コンサートは都内ではほぼ1年ぶりで、その上私としては初めてでずっと念願だった中井さんの中原中也。さらになんと今回は有名なエレクトーン演奏家・神田将さんとのコラボレーションによるコンサート。それが300人定員のホールを定員50%の「ファーストクラス対応」でというプレミアムなものでした。すべてが素晴らしくて、感動で感謝で、胸がいっぱい。2日経った今も興奮冷めやらぬほど、素晴らしいコンサートでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 コンサートは2部構成。1部は「詩人・中原中也の世界」と題する中井さんの一人舞台。2部は中也の想いを汲みつつ中井さんが構成したミュージカル曲などによるコンサートでした。

 

 第1部。舞台中央正面にエレクトーンが設置され、上手奥には中也の書斎と思われるシンプルな文机を模した低い台が1つ。下手奥にもシンプルな台が一つ。

 

 神田将さんが登場して今日のために神田さんが作ってくださったという前奏曲で始まりました。「音の魔術師」、「一人フルオーケストラ」、「エレクトーンの貴公子」などなどの異名はお聞きしていたのですが、初めて目の前で繰り広げられる神田さんのエレクトーン演奏を拝見して、本当に驚きました。どう見ても、手足はフル活用したとしても合わせて4本。鍵盤は2段と足元。それがどんな仕組みになっているのかはわかりません。そんなにたくさんのボタンがあるようにも見えず、風のように動く手足がいつ、どうやって音色の種類をあんなに切り替え、フルオーケストラほどのたくさんの音を同時に奏でるのか、全く理解できず狐につままれたようでした。それでもどうみても、舞台上には神田さんお一人。エレクトーン1台。パーカッションの音も含めて、すべてその神田さんのエレクトーンから、ライブで出る音でした。

 

 この前奏曲と途中に挟まれる間奏曲は神田さんが中井さんのオリジナル楽譜を元にこのために作ってくださった曲とのこと。すべて中井さんオリジナルの中原中也の曲を組み合わせて、これから展開するストーリーを想起させるドラマティックで斬新な洗練された音楽でした。

 

 暗闇の中、黒コートに黒マント姿の洋装の中井さん中也が登場。「サーカス」。「幾時代かがありまして 茶色い戦争ありました」で始まるこの曲は、中井さんと中也の最初の出会いの曲。小学校の教科書で出会ったこの詞を見て、小学生だった中井さんにはこのメロディが聴こえてきたといいます。のちに当時劇団四季在籍中だった中井さんが再び『中原中也全集』でこの詩に再会し、(近所の文房具屋さんで買ってきた)五線譜ノートに当時聞こえていたメロディを書き留めたのが、中井さんの中原中也の楽曲だということでした。

 

 

 (映像は2019年11月の中井さんソロライブより)

 

 「サーカス「に続き、「ダダ音楽の歌詞」からは、「平俗的幸福の生ぬくい生活に対する、徹底的な反抗と挑戦が必要だ」という強い語調が、私はいつも頭に残ります。凡庸なことに埋没して、藝術を追い求める力が削がれることを厳しく自分に戒める中也の姿がみえるように思います。

 

 (こちらの映像は、2016年のソロライブより。)

 

 それに続く「盲目の秋」からは、繊細で感じやすく、愛情深く執着も強い人間・中也の姿が痛いほど伝わりました。若すぎる時代に出会い、同棲して後に失った女性・長谷川泰子への強い執着と、自分の死に際まで思い浮かべつつ、その時なおも彼女に多くを求める中也の純粋さとこだわりが痛々しくて、私は思わず『ファントム』で描かれる怪人=エリックの幼児性、異常性、狂気性を思いました。若くして故郷を離れた早熟な中也が、孤独の中出会った女性にその後いつまでも執着する姿はまるでエリック。そう思うとこれ以降、中井さん演じる中也はもう、ファントムであるかのようにみえました。中也が「私の聖母(サンタ・マリア)」と呼ぶ長谷川泰子はきっと、中也にとってのクリスティーヌ。

 

 中井さん演じる中原中也は、『ファントム』のエリックのようによくも悪くも人間らしい人物にみえました。だから、その後別の女性とお見合い結婚して、生まれたわが子に歓喜する「春と赤ン坊」では、菜の花畑で大はしゃぎする中也の姿がありありと目に浮かび、その姿は微笑ましくも滑稽でさえありました。全編唯一の、明るい曲。

 

 でもそれは、次の「夏の夜の展覧会はかなしからずや」で一転、歌う詞はとある夏の夜、家族3人で移動動物園にでも行ったのかなという平凡で、だからこそ幸せな日常の一コマを歌っているのですが、メロディは短調でとても寂しくて。かわいいわが子をわずか2歳で亡くした中也が、かけがえのない過去の日常を描写した詩だったのでした。

 

  そこから一気に、クライマックスへ。「春日狂想」は短調で始まり、愛する者を亡くした絶望感と、中也の狂気、それでもなお俗世で生きていくことへの自嘲とあきらめを、後半に向かって転調してテンポも変え、最後は中也の真意とは真逆のような明るく盛大な(中也自身による)詞と、盛大に盛り上げる(中井さんによる)旋律とで演出されていました。とらえ方が難しい曲だなと、正直思います。

 

 第1部最後の「夏」はたぶんまだ生前の中也が、自分の死を想像して書いた詩なのだと想像しますが、最後に繰り返される「さっぱりとした」という言葉に象徴的なように、すがすがしい心持ちでこの世を去った中也の最期を感じさせる詩でした。

 

 途中、月や故郷や芸術を歌う歌があり、神田さん作曲による新曲の「お道化うた」では、ベートーベンとシューベルトのことを「ベトちゃんだとは思うけど、シュバちゃんではなかったろうか?」とビールのコップを片手に酩酊しながら繰り返す、中也の姿。こんな中也は100年前の詩聖ではなく、むしろ現代の中井さんの方に近い人物にみえてきます。中原中也が中井さんの身体を借りて舞台上に生きることで、ファントムのような天才的な芸術家で、でも繊細で感じやすい感性を持ち、人間としては決して完ぺきではない、人間臭い人物として私には俄然腑に落ちました。

 

 長くなってしまったので、第2部は後編でまた。ここまで読んでくださった方、(いらしたら)ありがとうございました。