先日シューカツがあって、私の前に座った女の子がずっときょろきょろしたりでっかい鏡を出して化粧したりかなり目障りだった。私が永田洋子だったら速攻総括させているだろうなぁ、なんてしょうもない空想をしながらその日は終わった。結果は自己批判。

 就職活動を地道に続けている。最近というか毎回、試験中や面接中になると『私このまま働くのかな?うわぁ、働きたくねぇー』といった心の奥底からおっきいぼやきが聞こえてきてしまい、それでもなんとか『だめだめ、働きたくてここまできたんでしょ』といったように葛藤をし気持ちを抑えつけている。

 今日、「宗教とは人間にとって受け入れがたい死を受け入れるためにある」と教授が言っていた。人間にとっての受け入れがたいモノって「死」よりも「生きていくこと」じゃないのかなーと最近思う。他人の死は別として、個人の死なんてものは来てしまったらその時はその時でしょ。私は生と死の間にある「生きている時間」のほうがよっぽどおっかない。だって死ぬまで生きないといけないんだから。人間の義務ってのは人権の尊重や自由平等なんかじゃなくって、「生きていくこと」なんだよね、多分。社会の一員として誕生した以上、みんながみんな勝手気ままに生きることを放棄する=自殺していったら社会が成り立っていかないし。自殺したいって訳じゃないけど、「生きていく」というか「生きなければならない」束縛が「生きるもの全てに死が訪れる」ことよりもよっぽど恐怖だわ。

 生死についてうんぬんかんぬん考えてたら、シューカツに成功した(内定もらった)人たちは本当に幸せなのかなーとか、街を歩いている金持ちそうな奥様たちは本当に幸せなのかなーとか、くだらないことで頭がいっぱいになった。そしたらなんだかシューカツせんでもええじゃないかって思ってしまった、いかんな。

 今日はこんなことを書いたけど、新左翼じゃないしカルト教徒でもないしアナーキストでもないし、ごく普通の女の子ですので。

 韓国人として韓国に生まれなくてよかったと思いました。私の場合、受験戦争で敗北するでしょう。敗者はどうなってしまうのだろうか。恐ろしやー。

 先日風呂上り鏡で顔をみると、前らかある顔のアザが濃く広がってきたような気がした。気のせいならいいけど、このままホラー漫画のように顔から体全体に赤いアザが広がってブラックホールみたいになって私が消えてまったら、とか考えてみたり。

 何処の国にいても私は私で私以外の何者でもないのですね。

 地球温暖化が進行しているっていうのに、就職氷河期到来らしいじゃん。やっぱり来年は農業かな。

 私なりに将来の事を考えていますが、一番手っ取り早いのが誰かと2人でタイかインドへカケオチすることだと気がついた。けどそれは相手が見つかればの話だが。

 シューカツは置いといて、今月小さな卒業旅行へ行ってきます。場所は台湾!ショウロンポウとか肉麺とかかき氷食べまくってこようと、また体重がリバウンドしてしまいそうですが。きっとまた減るでしょう。

 サイチェン

 早いもので11月、大学生ももう終り。母親が言ってた「大人は嘘が上手くて子どもは嘘が下手」って名言を思い出します。

 大学4年間で「たてまえと本音」の使い分けを覚えたことが、私ももう子どもじゃねえなぁ、と痛感する最近であります。例えば、「今度一緒に遊びに行きましょうね」とか「今度お店遊びに行きます」ということを知り合いになった人や友人から言われたり言ったりするけれど、その口約束実が現されたことは無いに等しく、そんなことがちょっぴり淋しいなと感じています。

 もしかしたら来年は新しい土地で新しい生活が待っているのかもしれないので、今月からは数え切れない口約束を実行に変えていこうかと考えておる次第であります。

 

 日本にある数々のスパゲッティ屋のなかには、フォークでなく割り箸一本を出し、「お待たせいたしました」と皿にどさっと乗っかったオリーブオイルいっぱいのスパゲッティを運んでくる店がごくまれにある。これは非常に食べることを厄介にさせてくれる。蕎麦やうどんと違ってオイルでべとつくパスタをすするには割り端のざらつきが邪魔をし大量のパスタを巻き込んで口に運ぶことになり、そしてまた、パスタは音を立てて食べるものではないという脳からの伝達とすするしか手段はないとする身体の動きがちぐはぐになり、非常に大変な食べる作業すなわち軽作業になってしまうのである。

 また、本来フォーク一本で食べるべきスパゲッティにスプーンが一緒になってくるのが気にくわない。日本人にとってスパゲッティをフォーク一本で召し上がることは、外国人が蕎麦を音を立てて召し上がるのと同じくらい、難しい作業なのかもしれない。スプーンの意味することは、パスタをフォークのみで巻きつけるのが難しいためにその補助になるということらしい。そのため、レストランに行きばお上品に紳士淑女はみなスプーンの上でパスタを転がしお食事を楽しむ姿をみかける。

 食事をするとは、ただ単に空腹を満たすためだけの事柄ではなく、スパゲッティならばなんとなくでもいいイタリアの風土や歴史を頭に思い描きながら、おいしくたのしく食事をすることも重要なことでなかろうかと、私は思った。

 11年ぶりの演奏となる「blow out」が始まったときは鳥肌もんだった。そして一番よかったのが「kid a」で。曲のアレンジも演出もきめ細かくされていて、ベテランだけどもそれに決して甘んじない新しいものを積極的に取り入れる、radioheadのアーティストとしての姿勢にくらくらしました。

 あぁ、もう一回みたい。今度はアリーナ席ではなくスタンディングで野外でビール飲みながらとか。

 最初は「bodysnatchers」それとも「15steps」か。。。4年ぶりの待ちに待ったレディオヘッドのライブが2日後に迫っておる!!これはあの遠足前夜のようなワクワク感ですな。東京国際フォーラムの2階の後ろから2番目くらいの酷い席になってしまったが、それでも私はいいんです。幕張の時、女子高校生だった私は、1人会場入りしもみくちゃにされながらもあの場の空気にグッときてたっけ。今回もまさか1人で行くとは思ってもいなかったが、それはよくって解散せずに今に至って日本へきてくれたことに私は感謝ですよ。「street spirit」「knives out」聴きたいな。

 夏休みはあっとゆうまに過ぎ去り、東京での学校生活が始まった。私は4年前に罹ってしまった、怠け病という脳みそから指の先まで動きたくないあれもこれもしたくないという症状が出る病気のせいで、今学期残された卒業までの数ヶ月間を週6で学校に通うことになってしまったのだった。

 学校は先週の金曜から始まり、勉強生活も1週間が経過した。金曜日は隣の県にあるキャンパスまでわざわざ行かねばならなく、けちけちな性格の私としては通学に費やす交通費がもったいなく思ってしまい、電車やバスに乗るたびにふぅとため息をつく日々である。

 相変わらず毎日を何かに急かされながら生きていて、そんな時間のふとした瞬間、秋の気配を感じるようになった青空を眺め、心地よい冷たさの夜風にあたると、今まで生きてきた人生を振り返りたくなってしまうのであった。こんな人生を振り返り無理やりに自己肯定してしまいたくなるのは、秋という自然界の生命たちが終焉を迎える時期特有の現象なのではなかろうか。

 

 おっちょこちょいさんで自分のことに頓着無い様をアピールしつつ、それが逆に愛嬌としてしまう1ミリ足りともぬかりない、そんなあの子に私もなってみようかと思った、今日この頃。ということで、今回は自動車学校での奮闘記だよん☆

 自動車学校に通いはじめで3週目に突入。明日、仮免試験があるにも関わらず、なかなか運転が上達しません。いつも時速15キロもない運転をしていて、それが20キロ弱にスピードを上げるとなると必ず混乱し、アクセルとブレーキを踏み間違えるという致命的な、文字通り‘致命的’なミスをしてしまうのです。昨日なんて左に曲がるためにランプのチカチカを出したのに、おもいっきり右のサイドミラーと右方を目視してしまいました。この奇妙な私の行動を観た指導官はあきれた様子でした。

 夏休み中に免許取得という目標はどうなるのか不安ですが、私なりに頑張ろうと思います。


 レディオヘッド追加公演チケット、電話をかけまくって手に入れた!!最高にうれしいです。A席で1人観戦だけど。。。

 最近は彼らの音楽とは遠いところに居たにせよ、もう一度この眼で目撃してあの場に居られるなんて!!感無量。

 今日から音楽聴いて雑誌読んで、本番に備えなきゃね。