Aquarius 安曇
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三河の山里だより というサイトを教えて頂きました。なかなか面白いですね。


まだ全部見てませんが、額田の夏山八幡宮の記事も興味深いですし、ヌカタフェ研究所は個人的に非常に興味がありますね。


白山祭りを見てきました。


花祭りの原型がこの白山祭りにあるらしく、やはり奥三河は多くの謎を秘めていますね。


白山だけでなく、熊野ともつながりが深いらしく、失われし修験文化が眠っているような気がします。



おそらく安曇氏は中央構造線沿いに安曇野へ入っているので、天竜川そのものへの信仰と相まって、非常に重層的な文化が出来ていたと思います。


長野県南部の湯立神事が走湯権現とつながりますから、実に巨大な文化圏が見えてきますね。




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巴山 『ウィキペディア(Wikipedia)』という山が愛知県に存在します。不覚にも全く知りませんでした。リンクにも記載している通り、藤原俊成が三河国の由来が豊川水系巴川と矢作川水系巴川と男川の3つの河であると聞いたらしく、3つの和歌を詠みました。


その和歌が巴山の山頂の白鬚神社にあります。


分水嶺  (昭和女子大学 日本語日本文学科 日文便り)


上のブログに歌碑の内容と分水嶺にまつわることが詳しくレポートされています。


*******************引用はじめ******************************


豊川 ・・・ 神代より 湧き出る水の巴川 いくちよへぬと 知る人ぞなき
矢作川・・・ 巴川 その水かみを たづぬれば 薄のしづく 萩のしたつゆ
男川 ・・・ つるきたち 三河の水の みなもとの 巴山とは ここをいふなり

*******************引用おわり******************************


その中で男川(おとかわ)の”つるきたち”の言葉が気になります。


私たちのふるさと男川 (新郷土史「男川」)によれば、水音高き故に音川と云ふ、と書かれています。


男川(おとかわ)は乙川(おとかわ)に合流します。また、地名辞典「愛知県」によれば、男川がS字に蛇行した丸山町周辺には竜宮伝説があると言い、両岸にそれぞれ雄竜頭・雌竜頭という呼び名があったそうです。つるき(鶴亀)といい、男・乙といい、雄竜頭・雌竜頭といい、ここにはあまりにも私たちが失った古代文明の痕跡が残りすぎています。


おそらく、巴山は三つ巴の発祥の地であり、大鞆和気命(おおともわけのみこと)と呼ばれた応神天皇 『ウィキペディア(Wikipedia)』の都は、この巴信仰を元に三河の現国分寺付近に作られただろうと思われます。


巴は鞆(とも) 『ウィキペディア(Wikipedia)』であり、鞆は弓の装身具です。神功皇后が卑弥呼か台与であるかはわかりませんが、古墳時代初頭、弓が戦争の中心的武器だった確率は高いでしょう。


前回の記事 で書いたように蹉跎(さた)は、アメノマヒトツ神、つまり製鉄の神を表しますから、若宮は大和の大同団結の後、再度混乱に陥った連合国家から脱し、鉄を積極的に使用していた西からの勢力から逃れてきたという考え方もできるでしょう。そして、そこで再度、大同団結を三つ巴思想による統治で成し遂げようとしたのではないでしょうか。


つまり、弥生時代後期には日本海側の銅剣文化圏は消滅しており、銅剣文化圏が鉄剣の文化に急速に発展してきて倭国と日ノ本国だけでなく、鉄の後ろ盾をもった勢力が出雲・敦賀を征服し近江・尾張へとやってきたのではないかと思います。敦賀-尾張を鉄のラインで切り崩された倭国は、存続が不可能になり


安曇氏:北九州⇒渥美

秦氏・賀茂氏:四国⇒伊豆・相模

忌部氏:阿波⇒安房


となっていったのではないかと思います。

しかし、応神天皇即位後、再び日本は安定し初期大和朝廷第二幕が始まったのではないかと思います。


恵那は天照大御神(卑弥呼)の胞衣が埋葬されたことからつけられた名称であるともされています。胞衣とともに若宮は三河へ逃げられたのです。全てのことに辻褄が合います。


また、三つ巴は単に弓や水源を意味するだけに留まらず、三河の土地は、富士山・白山・伊勢熊野に同じ距離感を保っている土地です。


しかも南に開けた湾を持っており、東日本・西日本・日本海の勢力が三つ巴になり拮抗したときにそれらを統率できる土地でもあります。


実際、弥生中期には銅鐸(東日本)・銅矛(西日本)・銅剣(日本海)文化圏が三つ巴になっていました。


そのような神聖な土地に応神天皇が都を開いたとしてもなんら不思議はありません。むしろそう考えなければ、鹿文化を持っていた日ノ本国の人たちが、その後も勢力を保ち続けた理由を説明できません。



そして、これは次回につながる巨大なテーマですが、この応神三河即位説は、なぜ神奈川県の前鳥神社 『ウィキペディア(Wikipedia)』に応神天皇の皇子・菟道稚郎子命(うぢのわきいらつこのみこと)が祀られているのかに具体的な解を与えることができます。


菟道稚郎子命は、『記・紀』では消された幻の宇治天皇です。宇治天皇は大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、後の仁徳天皇)に皇位を譲るべく自害したという美談で知られますが、本当にそのようなストーリーでしょうか。


阿直岐(あちき) 『ウィキペディア(Wikipedia)』に関わりがあります、前鳥神社 (神奈川県)、阿自岐神社 (滋賀県)、宇治(京都府)、和食・わじき(高知県)には行きましたし、岡山・長野の阿智神社についても深く調べました。参考⇒阿智神社と富士山 (Lemurian resonance)


とてもではありませんが、『記・紀』のストーリーを信じることはできませんでした。前鳥(さきとり)と埼玉(さきたま)はつながっています。関東の古墳群が畿内の3倍ほどの規模を誇る量を持っているというのはよく知られた話です。2年前に群馬巡りをしてきました。 (Lemurian resonance)


関東に古墳が多い理由は、応神天皇が古墳時代初頭に三河に都を置いたことに端を発しているのです。




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鹿と蹉跎(さた)の関係。


鹿は、鹿の角を神格化したおそらくは縄文の信仰で、鈴鹿(三重県)-砥鹿(愛知県)-有鹿(神奈川県)-鹿島(茨城県)-牡鹿(宮城県)-男鹿(秋田県)など、東日本を中心に現在でも残されています。


一方で、蹉跎。


佐多岬(鹿児島県)-佐田岬(愛媛県)-蹉跎岬(高知県「現足摺岬」)などに残され、大阪には蹉跎神社(さだじんじゃ) なる神社もあります。


大きくわけて考えると、岬を捉える感覚が、『鹿の角』と『なんらかの一本足』とで大きく隔たりがあるのがわかります。この『なんらかの一本足』は、おそらくはアメノマヒトツ神、つまり製鉄の神ではないかと推測できます。


足がつく地名も各地に存在します。特に重要なのが足柄。そこから北極星を目指して山を進んで行った先に、鉄を産出し、その鉄で非常に大きな勢力を持った秩父文化圏が存在します。


おそらく、この鹿と蹉跎(さた)の文化的差異は、縄文後期から弥生時代を通じての日本の歴史を知る上での非常に重要な鍵になるのではないかと思います。


日本列島の中で、最も象徴的な鹿は、佐田岬と渥美半島であり、太陽神としての佐田岬は九州の国東半島と生殖し、太陽神としての渥美半島は紀伊半島の伊雑宮と生殖します。その重要な女神の地に、宇佐神宮・伊勢神宮という巨大神宮が存在するのは偶然ではないでしょう。


男性太陽神アマテル(ニギハヤヒ)とは、日ノ本国においては鹿で象徴され、それがヤマトタケルとなり、倭国においては、蹉跎で表現され、サルタヒコとなったのでしょう。


その両方の文明に深く関わっているのが、海人族・安曇氏であり、元々縄文の砥鹿の文明があった豊川付近をワタツミの文明に塗り変えてしまったアクエリアスな氏族であったと感じます。


もし仮に、安曇氏が砥鹿(渥美半島)を武力で制圧したのであれば、安曇野の八面大王は大和朝廷には討伐されなかったはずです。


彼らは外来の文化を取り入れながら(もしくはフェニキア人そのもの)、縄文の鹿文明と見事に融合を果たしていったのです。フェニキアを持ち出す根拠に三脚巴(さんきゃくともえ、Triskelion) 『ウィキペディア(Wikipedia)』なども挙げておきたいと思います。


蹉跎-足-三脚巴-鉄-アメノマヒトツ これらの中には大きなメタファーが存在しています。



縄文と大和朝廷(権力)の狭間に存在した海の民・安曇氏、そして東と西の文化の狭間に位置する渥美半島、これがこのブログの大きなテーマでもあります。


日ノ本国と倭国、この2つの国が日本に同時に存在したという説も、現在積極的に支持されているわけではありません。私が独自に調査し、レムリアンリゾナンスの日ノ本国項 で書いています。


おそらく縄文の鹿文明は弥生時代の銅鐸文化まで継承されていたと思います。銅鐸文化圏と銅矛文化圏の狭間にあった高知県には、半島に大鹿という地名が残されていますし、四万十もアイヌ語と言われています。一方で南西部に巨大な秦文明を擁し、最終的には高知県中央部で、この鹿文明と秦文明が大同団結した痕跡が残っています。これが大和であろうと思います。


銅鐸文明圏の最前線が剣山にあり、倭国が勢力を伸ばしてくるまでは、日ノ本国が四国・瀬戸内の制海権を獲得していたはずです。縄文晩期の居徳遺跡(高知県)には東北縄文文化の土器が発見されており、縄文晩期から弥生時代のそこそこまでは、東日本が文化の中心地であったことは明白です。


おそらくそのような時代に最も力を持っていたのが、砥鹿(渥美半島)であり、日ノ本という言葉もそこで生まれたと思います。渥美半島から鳥羽にかけての『稲羽の素兎渡り』は、鉄器が日本に入ってくる前の日本人の心性を現す非常に重要な地形であると思います。


また、その文化を大陸から渡ってきた人たちが守ろうとしていたことも、これからの日本にとっては重要な認識になるでしょう。兎にも角にも、アクエリアスの2千年紀が幕開け、2千年前(弥生中期)の記憶が日本人の中に蘇ってきているのです。


宗教的な認識の部分をさらに詳しく説明しますと、太陽神・ニギハヤヒと大地母神・瀬織津姫が日ノ本国の宗教だったわけですけれども、弥生時代の早い時期にキリスト教の原型になるミトラ教のようなものが入ってきて、四国で習合していきました。これが邪馬台国とか物部氏を生み、弥生時代後期を彩っていったのです。その後おそらくは秦氏・賀茂氏・蘇我氏・安曇氏などが流入し、この氏族たちが持っていたものは、ミトラ教からさらに発展した原始キリスト教です。既に太陽神がキリストに大地母神がマリアに設定されていたと思いますが、未だ汎神論的キリスト教で、縄文と結合する余地があったので、国譲りが為されたのだと思います。


縄文的な首長制から近代的な天皇制に移行できたのは、この秦氏・賀茂氏・蘇我氏・安曇氏などの原始キリスト教者たちの功績が大きかったと思います。なぜ京都の重要な地に彼らの居住区があるのか、それを考えれば自ずと答えは見えてきます。


これが、一応、日本におけるクニの誕生・ハツクニシラスとなるわけですが、このシラが、白山であることはそんなに多くの想像力を要しないでしょう。


縄文から存在する日本の白岩信仰や鶴信仰が、彼らの中に存在するピューリタニズムやゼウス信仰と寸分の狂いもなく重なったのです。だからこそ大和は誕生したのです。


しかし、その後、流入してきた帝国主義的キリスト教には、反発が起こりました。1神教的色彩が強くなり、日本の汎神論の土壌には馴染まなかったからです。この帝国主義的キリスト教は仏教の中に潜んで日本にやってきました。その後の歴史は皆の知るところです。








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三河で最も気になることと言えば、白山と三河の関係。


三河の桜井寺と財賀寺が白山美濃馬場の三河国内先達役を巡って戦国時代に争っていたらしく、今川義元の時代には両者痛みわけで解決し、徳川家康の時代に、桜井寺が三河一国の先達を受け持つようになったようです。


三河には白寿観音も多く、白寿観音は検索でも北陸と東海しかあまりヒットしません。ちなみに三河国分寺近く(現豊川市)の財賀寺にも白寿観音が安置されており、白寿は99歳を祝うふしめなので、99でククリ姫であることは明白であり、三河の白山信仰というのは、異様なほどの熱気で包まれていたということになると思います。


この水脈を辿っていくと、やはり秦氏+賀茂氏が存在し、そこに物部氏が絶妙に絡んでいる土佐と同じ構造が見えてくるのであります。


土佐南西部の波多国(秦王国)にも、白皇神社が無数に存在し、白山神社内に白皇が祀られていたり、修験のメッカであったため白皇権現と白山権現がほぼ同時に祀られたりしており、上の三河の例を含めて考えると、秦氏と白山のメタファーはより一層、強固なものになってきていると感じています。


白山三馬場の中でも美濃馬場が最も栄えたらしく、その裏には東海道の氏子を白山へ送り込んでいた、三河の存在が非常に大きかったのではないかと思います。





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安曇氏 『ウィキペディア(Wikipedia)』は、非常に気になっており、三河国の渥美郡だけが縁がなく、調査が及んでませんでしたが、あらゆることがより一層、はっきりと見えてきています。


安曇氏関係で最も気になるのは、八面大王のこと。


八面大王で最も有名なのは、魏石鬼 八面大王 (ぎしき はちめんだいおう) 『ウィキペディア(Wikipedia)』。


そして、その魏石鬼八面大王が八女大王と呼ばれることにも注目。


大分県には八面山 『ウィキペディア(Wikipedia)』があり、母なる山ともされている。八女からもそう遠くはない。


そして四国にも八面山が2つあり、剣山系には八面王(やつらおう)伝説があり、土佐では妖怪にまでなっている。三目八面(さんめやづら、みつめはちめん)


高知県物部村のいざなぎ流 『ウィキペディア(Wikipedia)』神事・日月祭にも八面王は登場します。八面王(やつらおう)神社跡 (四国のやまなみ)もあります。


さらに土佐弁でメンは女性を現し、八面とは八人の女性という意味になる。これは八女の漢字にもつながり、剣山系から出てきた全身入れ墨の8人の巫女のミイラが何を意味するかは、それぞれの感性で捉えてもらえば良いと思います。沖縄の巫女文化が剣山系の巫女文化に影響を与えていたのは明白です。


八俣の大蛇が、邪馬台国のメタファーであるというのはよく言われることですが、この八面王のことを考えると非常によく理解できます。


卑弥呼はおそらく7人(北斗)の巫女からサニハを受け、神託を修正しながら民衆に伝えていただろうと考えられ、このイメージは聖徳太子にも重なり、『記・紀』を編纂した人たちは、この統治方法を知っていたのだろうと思います。


卑弥呼は、つまり火と水の調和させる巫女・日水子ですから、太陽と月のいざなぎ流・日月祭祀は極めて合理的であると思います。


この日の部分を物部氏が握り、水の部分を安曇氏が握っていたのではないかと考えています。安曇氏はアマツミから転化したものだとも言われ、いってみればオオヤマツミの逆ですね。三河は安曇だけでなく、物部の影も濃く、中央構造線を北に駆け上がると、モレヤ神(物部守屋)の諏訪に到達します。


この八面大王が安曇野へ入っていったのは、おそらくは中央構造線沿いに渥美半島から天竜川と平行し北へあがっていっただろうと考えられます。一般的に言われる信濃川沿いの南下は可能性としては薄いだろうと思います。


これに秦氏+賀茂氏+葛城氏の鶴祭祀が結合し、とてつもない巨大な信仰が日本列島で展開していたということではないかと思います。


西からいきますとこの文化の激震地は


①八女・八面山・宇佐八幡付近

②四国剣山系

③三河国全体(矢作川+豊川流域)

④安曇野・諏訪

⑤富士山南東部(伊豆箱根、山梨県都留市、真鶴、秦野、伊勢原)


さらに三体妙見の激震地を西から重ねます。


①宗像・宇佐八幡付近(大元信仰・3女神信仰)

②厳島神社

②岡山倉敷阿智神社付近

③高知浦戸湾内(浦戸七島)

④伊豆白浜神社(伊豆七島)


ここで気になるのが、越前秦氏と結合していただろうと思われる日本海の海人族・海部氏ですが、海部氏は尾張氏と関係があり、三河と尾張は、文化的隔たりがあったのかもしれません。


織田信長も越前秦氏の末裔で尾張を統治しましたが、三河の今川義元との決戦・桶狭間が戦国末期の日本再編の幕開けも誘引したことから、文化の狭間的色彩が強かったのではないでしょうか。


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