室町後期~安土桃山期の下京、続きです。

 

 

 

 

上京の小川通りのところで、鎌倉新仏教の

臨済宗や浄土宗の寺院が多くの参拝客を集めて

いる様子についてお話ししました。

 

 

 

 

今回は、こちらも当時、下京で多くの檀徒・信徒を集めていた

日蓮宗の寺院についてお話ししたいと思います。

 

 

前回の記事で、上杉本洛中洛外図屏風に、

二条殿と妙覚寺と妙顕寺が並んで描かれている部分を

紹介しました。

 

 

中央が妙覚寺、左下が妙顕寺です。

 

 

 

実はこの部分の右側に、有名なお寺が描かれています。

 

 

右下の寺院、「法能寺」と書かれています。

これ、あの本能寺です。

 

 

 

 

本能寺も日蓮宗の有力な寺院でした。

現在は京都市役所の対面に位置しています。

 

 

 

 

 

前回の記事でさらっと、本能寺の変の際に

信長は本能寺、信忠は妙覚寺に宿泊と書いていますが、

 

両方とも日蓮宗のお寺です。

 

 

 

 

 

織田信長と仏教勢力と言えば、基本的に敵対のイメージが強いです。

 

 

延暦寺とはガチでぶつかり、延暦寺は焼き討ちに。

石山本願寺は血で血を洗う十年戦争、の末炎上。

 

 

 

 

徹底的にやりあった仏教勢力がいて、屈服させたことは事実。

 

ただ信長は、動員力や金銭面で当時、勢いのあった勢力には

「敵」か「味方」かをはっきりさせた上で対処していたようです。

 

 

 

 

延暦寺は浅井・朝倉と組んで敵対したし、石山本願寺も

信長軍を妨害したり、組織的に戦ったりした。

 

なので敵認定。

 

 

 

 

日蓮宗は、敵に回りませんでした。

 

信長が包囲網に遭うことになる30年以上前、

法華勢力として武装し、延暦寺他の勢力に攻撃され、

京都を追い出された記憶がまだ、

生々しかったからかもしれません(天文法華の乱)。

 

 

 

 

 

ですが、日蓮宗が信長と特段、

仲良かったわけではありません。

 

 

 

 

 

ルイス・フロイスは、信長は形式的には日蓮宗徒、的な

ことを書いています。

妙覚寺が定宿だったから、そのように考えたのかもしれない。

 

 

 

 

一方で、確か大河ドラマ「信長」で、

 

「商人や仏教徒は大金を動かしたり動員したりしているが、

 それは武士が、治安を安定させているから可能なこと。

 商人や仏教徒にも、相応の負担させなければならない」

 

的なことを語っているシーンがありました。

 

 

 

 

 

現在確認できる資料を追うと、

日蓮宗は信長を京都に迎えるに際し、

檀徒から集めたお金を差し出していました。

 

 

 

 

京都の日蓮宗16寺は、協力して天正4年(1576年)に、

洛中勧進と呼ばれる喜捨を集めました。

 

この年は信長の二条新御所の建設が始まった年。

 

信長も物入りの時だろうし、

延暦寺が5年前に徹底的にやられた後でもあって、

今、信長を敵に回すのは得策でない、との判断が

そうさせたのかもしれません。

 

 

集まったお金、1200貫文。

 

米1石=銭1貫文とし、1貫文=20万円とすると

2億4千万あまり。

 

この大金を、見舞金代わりに

信さまへポンとプレゼント。

 

 

 

 

 

これで今後ともよろしく、仲良くしてください。

以上。

 

 

で済ませたいところでしたが、

そんなに信長さまは甘くない。

 

 

 

 

日蓮宗寺院の結束力、動員力、集金力に驚いた

信長は、その後も日蓮宗の力を削ぐかの如く、

安土宗論だのなんだのと、様々な機会に

お金をふんだくります。

 

 

 

 

結構な金額をむしられていて、

イエズス会が小気味よく思っていた記述が

残っています。

 

 

 

もちろん、これは日蓮宗だけの話ではありません。

 

堺も、1569年に何と2万貫、

やられています。

 

 

 

 

1569年といえば、信長が足利義昭に、

堺、草津、大津の直轄領化を認められた翌年。

 

 

 

挨拶代わりに40億、

むしり取る信長。

 

徹底してます。

さすが。

 

 

 

 

日蓮宗の寺院にしても、

妙覚寺などは大分前から宿として場所を

提供しているのに。

 

最初に目いっぱい、お金あげすぎましたかね。

 

 

 

 

コストはかかったものの、

日蓮宗の諸寺は信長に敵扱いされず、

(移転はしたものの)現存しています。

 

 

 

 

 

結果から見れば、無事に済んで

よかったんじゃないでしょうか。

(本能寺は焼け落ちて、災難でしたが)

 

 

 

 

妙覚寺の門からの写真。

この門は、聚楽第の門を移築したもの、との

言い伝えがあります。

 

 

それから妙覚寺には、

上杉本洛中洛外図屏風の作者とされる、

狩野永徳の墓があります。

 

 

狩野家も檀徒として、勧進に参加した記録が

残っています。