
今から書くのは
10月12〜14日に夫と
長野に旅行した記録のうち、
13日の記録の
2つ目です。
旅行の記録がたまりすぎて
書くのがすっかり
面倒になっていましたが、
書いておかないと
全部忘れてしまうので
頑張って書きま〜す
今回の記事は
歴史にご興味のない方は
長くてつまらないかもしれません。
これは私の
ただの日記なので、
もしもつまらなかったら
無理してご覧にならずに
回れ右して下さいね
初谷温泉を
チェックアウトした私達は
長野県上田市に行きました

夫も私も上田市に行くのは
人生初でした❗️
上田城跡公園の横に
観光案内所があったので、
最初に立ち寄りました。
上の写真は
真田信繁(幸村)公の銅像です。
サマーウォーズって
上田市が舞台なんだ〜❗️
知らなかった…。
紙兎ロペと
リスのアキラ先輩も
上田市なのかな


大河ドラマ
「真田丸」で着用した
真田昌幸公(草刈正雄)の
鎧兜と十文字槍です❗️

幸隆公(幸村公の祖父)、
昌幸公(幸村公の父)、
信繁公(幸村)公の
三代の甲冑です。
観光案内所で
こんなに本格的な展示が
見られるとは
思っていなかったので、
嬉しい驚きでした💓

大河ドラマで使用した
真田昌幸公の陣太刀と
真田信繁公の陣太刀です

観光案内所で
色々見て回った後、
上田城跡公園に
向かいました🏯

上田城跡は国の史跡で
天正11(1583)年に
真田昌幸公によって
築城された平城で、
千曲川分流尼ヶ淵に臨み
太郎山・千曲川・神川に取り囲まれた
天然の要害にあり、
天正13年に
昌幸公が徳川家康公の命に
従わなかった為
大久保忠世・鳥居元忠勢
八千人が攻めるも、
ついに落とすことは
出来なかったそうです。
また、慶長5(1600)年には
豊臣方に与した昌幸・幸村親子が
上田城に立て籠もり
徳川秀忠公三万八千の軍勢を
関ヶ原に遅参させたことから
難攻不落の名城と
謳われたそうです。
三の丸は市街地に
変わってしまったものの、
本丸と二の丸は
今も土塁・石垣・濠跡が残り、
本丸東西虎口には
3基の隅櫓と石垣が
今も名残りを留めているそうです。

立派な石碑を眺めながら
お濠を渡ります。

石垣はぴっちりと
隙間なく
積み上げられていました。

石垣の上には
桜が植えられていました

二の丸濠は
昭和時代は鉄道が
走っていたそうです

天正13年の戦いでは
徳川勢の七千人余に対し
真田勢は二千人弱でしたが、
徳川勢の死者千三百余人に対し
真田勢の死者は40人ほどだったそうです。
上田城は江戸時代に
徳川によって破却された後
仙石氏によって
復興されたそうです。
明治時代に廃城になった後
払い下げられた本丸一帯を
一括購入した丸山平八郎は、
明治12年に
松平神社(現真田神社)創建にあたり
本丸南側の土地を神社に寄付し、
明治26年には
残りの土地を遊園地用に
寄付したそうです。
なんて素晴らしい
見上げたお方なんでしょう❗️

東虎口の土橋は
濠跡に上田温泉電軌北東線が
通るにあたり、
コンクリート製の二の丸橋に
掛け替えられたそうです。

上田市立博物館の
本館と別館があったので
本館から入ってみました

松平家入封後は
仙石氏の永楽銭紋から
松平家の五三桐紋に
変えられたそうです。
藤井松平家2代の信一公が
織田信長公から拝領した
革胴服に付いていた五三桐紋に
ちなんでいるそうです。


織田信長公から
革羽織を拝領したのと同じ
永禄11年の箕作城攻めの折、
徳川軍の兵を率いて出陣した
松平信一に、
徳川家康公が餞として与えた
黒漆塗の丸胴具足です。
三葵紋付きで
兜はミミズクを
かたどっているそうです🦉


徳川秀忠公の
受領書出しです。
伊賀守藤井松平家初代の
松平忠晴は
徳川秀忠公の前で元服し、
伊賀守に任じられるとともに
秀忠公の「忠」の一字を
賜ったそうです


松平忠晴宛の
徳川秀忠公の書状です。
家宝として
子孫に受け継いで来たから
私が今ここで
このような貴重なものを
拝見出来るんだなぁ…と
感激しました💓

松平忠周所用の
胴具足です。


松平忠周公の御着始具足は
元服の時に着たそうですが
数え15歳にしては
かなり小さかったです
兎の耳が可愛い❗️
🐰


歴代藩主の
京都所司代時代の
覚え書きやら
日記やら、
よくぞここまで
細かいものもすべて
保管しておいたものだなぁ〜と
感心してしまいました


珍しい、
左利き用の火縄銃です。
きっと藩主の中に
左利きの方が
いらしたのですね…。

6代藩主忠優公所用の
腹巻具足です。
これもかなり
小さかったです。
昔の人は全体的に
小柄ですね…。


前列左から2番目が
洋式兵装の
藩主忠礼公です。
周囲の家臣と較べて
お顔に品がありますね

最後の上田藩主だったそうです。


学ランにそっくり❗️
学生服は
洋式兵装を流用して
改良したものなんですね…

赤松小三郎さんの特別展示は
すごく見応えがありました。

赤松小三郎さん(1831〜67)は
上田藩士芦田家の次男として生まれ
赤松家の養子になりました。
幼い頃より和算を好み
18歳で江戸に出てからは
和算の他、
蘭学・天文学・暦学・測量・
地理・西洋砲術・航海術を
学んだそうです
その後勝海舟に師事して
長崎海軍伝習所で
西洋の様々な新知識を学び
蘭書の翻訳を行った他、
上田に戻ってからは
兵制の西洋化や兵器の調達・開発に
あたったそうです。
慶応2(1866)年
「英国歩兵練法」の翻訳・刊行により
洋式兵学者として
世に知られることとなり、
京都で私塾を開いて
各藩から集まった弟子に
西洋の兵学や政治を教えたそうです。
慶応3年5月には
松平春嶽に宛てた建白書の中で
二院制の議会制度を提唱し、
わが国における議会制度の先唱者として
高く評価されているそうです。
慶応3年9月3日、
弟子であった薩摩藩士
中村半次郎(後の桐野利秋)らに暗殺され
37歳の短い生涯を
閉じたそうです

赤松小三郎さん所用の
ミニエー銃です。
銃床に「赤松」と
刻印されているとの事でしたが
どこかわかりませんでした。

弾薬箱は
当時の最先端技術なのに、
薬売りの背負子のようなものに
入っているのが
興味深かったです


上田藩主あての
赤松小三郎さんの建白書は
身分にかかわらない人材登用の他
当時17歳だった松平忠礼公に対し
藩主として取るべき姿勢について
意見を上申したもので、
末端の一家臣が
藩主に直接上申する事が
通常ではあり得ない上に
大変強い調子で
意見を述べています。
激変する時政に対応出来ない
藩当局に対する、
赤松小三郎さんのいらだちが
うかがえます。
先ほどの忠礼公の写真で
藩主が藩士に交わって
写真撮影をしていることに
私はびっくりしたのですが、
赤松小三郎さんの意見を
忠礼公がすべて聞き入れたということが、
この建白書を拝見して
よ〜くわかりました

幕府あての
赤松小三郎さんの建白書の
下書きです。
404メートルもある長文で
長州藩征討には勝算がないと
はっきり書いていて、
時局を読む鋭さに
びっくりしました

芦田柔太郎さん
(実のお兄様)あての
赤松小三郎さんの書簡には、
開成所教官として
小三郎さんを採用したいという
幕府の申し入れを
上田藩が断った事への不満や、
京都から上田に帰るようにと
藩命を受けている事について
会津藩がしきりに止めようとしていた事が
書かれているそうですが、
上田藩と会津藩との交渉資料によれば
会津藩は小三郎さんを
薩摩藩の内情を探らせる為に
利用していた向きも
あったそうです

慶応3年8月20日付けの
芦田柔太郎さんあての手紙です。
当時の小三郎さんは
上田に帰るようにという藩命に抗して
病気と称して京都にとどまり、
私塾を開き志士と交わり
薩摩藩や会津藩の京都屋敷に
出入りしていたそうです。
周囲の政情や思惑に頓着することなく
ただひたすら
「報国」「興国」の
「小補」になれれば幸いだと
手紙の中でその心中を
吐露していた小三郎さんは、
9月3日に
薩摩の凶刃に斃れるのでした

小三郎さんが暗殺された後
三条大橋南側の擬宝珠に
斬奸状が貼り出されたそうで、
下の写真の紙は
その写しだそうです。

赤松小三郎さんのお墓と
所用の刀です。

赤松小三郎さんが翻訳した
英国歩兵練法です。
小三郎さんは薩摩藩京都屋敷で
薩摩藩士の教育に
あたっていたそうです。

上田藩ではおそらく
うかうかと会津藩に
密偵のように利用されている
赤松小三郎さんの身が危ない事を
察知していたのだろうと、
私は感じました。
だからこそ藩命として
帰参を命じていたのだろうと
思われます。
純真な赤松小三郎さんは
ただただ日本国全体の為を思い
いてもたっても居られずに
奔走していたのだと思いますが、
薩摩藩にしてみれば
両方の藩に出入りしている
赤松小三郎さんは
大変危険な人物な訳で、
暗殺されたのは
当然の帰結だったのかも
しれません。
夫は私に
「この人、
藩命があった時に
すぐ上田藩に戻っていれば
殺されなかっただろうし、
生きて明治を迎えていたら
きっとものすごく
活躍していただろうに、
勿体ないね…。」と
言いました。
私も同じ事を
考えていたので
「本当だね…。」と
答えました。
当時の上田の人達全員が
上田の偉人を
惜しくも亡くしてしまったと
私達と同じように
感じたからこそ、
こうして令和の世になっても
赤松小三郎さんの事績は
博物館で顕彰され続け
伝えられ続けているんだな…と
思いました。
赤松小三郎さんの事を
知る事が出来て、
良かったです
下の写真は松平忠礼公が
上田藩知事になった時の
辞令です。
上田市立博物館には
上田市にとって
ものすごく重要で貴重な資料が
なんでもかんでも置いてあるな〜❗️と
感心してしまいました

旧藩主居館です。
長野藩と統合して
廃藩になった後は学校の校舎として
使われていたそうです。

払い下げとなった
上田城櫓のうち2つは
上田遊郭の妓楼になり
そのうちのひとつが
万豊楼だったそうで、
現在の城櫓は
これを再移築したものだそうです。
よくとってありましたね❗️

次に私達は
上田の偉人、
山極勝太郎さんの展示を
見ました。

上田藩士山本順兵衛の三男として生まれ
後に藩医の山極家を継いだ
山極勝太郎さんは、
東京大学医学部を卒業後
ドイツに3年間留学して
病理学研究の第一人者である
ベルリン大学のウィルヒョウが提唱していた
「がん刺激説」に影響を受けたそうです。
大正2年にうさぎの耳に
コールタールを塗って
人工がんを作る事に成功し
ノーベル賞候補となるも、
2年早く人工がんを作った
デンマークのフィピゲルが受賞して
賞を逸したそうです
しかし後にフィピゲルの研究は
がんではなかった事が判明し、
山極の研究が世界初の人工がんだと
評価されたそうです。


朝日新聞に紹介された
山極勝太郎さんの記事です。


いや〜、
見応えがあって
面白かったです❗️
博物館は
元は二の丸籾蔵があった場所に
建っていました。

本館だけでも
ものすごく盛りだくさんだったのに、
なんと、
別館もありました

満開の金木犀は
天皇陛下行幸記念に
植樹したものでした🌳

真田氏の名前が見える
室町時代の書物です。

真田氏の出自には
謎が多いそうです。

六文銭の旗印です❗️

よく残っていたなぁ…。

2代上田城主の
真田信之(信幸)の肖像画です。

武田昌幸宛北条氏邦書状です。
3月12日は武田勝頼が果てた翌日で
武田滅亡直前に真田氏と北条氏が
今後の身の振り方について
相談している事がわかる
貴重な資料です。

諏訪久三宛信繁安堵状です。
第二次信州上田合戦(神川合戦)後に
上杉景勝の人質となった信繁は
上杉家の家臣として
扱われたそうです。
屋代家の旧領を
あてがわれた信繁が
屋代左衛門尉が与えていた本領を
そのまま諏訪氏に安堵するとした
書状で、
非常に興味深かったです。

こちらの旗指物は
非常に状態がいいです❗️


真田昌幸公や信幸公の安堵状や
感状の展示が続きます。



下の写真は
本物の昌幸公所用の
胴具足です❗️

カッコいいですね〜

信州上田合戦図です。
ごく小さいものですが、
上田市立博物館には
よくぞ残っていたと思うような
すごい資料がザクザクあって、
驚嘆しました❗️

第一次上田合戦時の
信幸の書状です。
今ならメールや電話があるのに
戦の最中の通信手段として
手紙しかなかったのです。
通信役は途中で殺されたり
奪われる事もある訳で、
命懸けの任務だなぁ、
よくこの手紙が残ったなぁと
思いました

北条氏が真田家の名胡桃城を
襲撃・奪取する事件を起こした事に対して
激怒した秀吉公が
昌幸公に送った書状です。
私戦を禁じた惣無事令への違反だとして
これを口実に秀吉公は
小田原討伐に取りかかりました。
どれもものすごく
貴重な資料ですよね…。


家康公討伐の事が
書かれています。
取った取られたと
戦ばかりしていて、
戦国時代って嫌だなぁ…と
思いました



信之公宛の
家康公の安堵状です。

真田家は
秀吉公と家康公の間で
難しい舵取りを迫られましたが、
真田家を後の世に繋げる為に
兄弟で敵味方となって
戦う事を決断した背景が
博物館の資料から
よ〜くわかりました。

真田昌幸公宛の
石田三成の書状は
めちゃ長かったです。

真田昌幸公の時代の
金箔瓦や軒丸瓦です。
京都の伏見城普請を
割り当てられた昌幸親子は、
この時最新の築城技術を
習得したと思われるそうです。


関ヶ原合戦後に
徳川によって上田城は破却され
旧真田領の小県郡は
真田信之公に引き渡されます。
信之公は三の丸に
堀を巡らせた屋敷を建て
そこを政庁としましたが、
徳川を憚って
本丸と二の丸は破却されたままに
していたそうです。

とっても面白かったし
ワクワクしたのですが、
第一級の資料ばかりで
しかもとても多いので、
全部見るのにとても時間が
かかってしまいました


夫は学生の頃
自分が真田だったら
治世をどうしただろうかと
脳内で想像を
繰り広げていたそうです。
信長の野望のゲームが
発売された時は
ずっと真田家で
プレイしていたそうで、
夫にとっても私にとっても
上田市立博物館は
非常に面白かったです❗️![]()
続きます。