支社長との面談は
私が支社の人事を訪ねてから
何日かたって
人事からメールが来て
決まりました。


お互いの都合を調整した結果
私と支社長の面談は
12月27日と
年末ギリギリに
決まりました。


私が勤めている
大手金融会社の支社は
今は私の家から
地下鉄の駅で2つ離れた所に
ありますが、

自社ビルに引っ越すまでは
私の家から歩いて15分、
自転車なら5分と
すぐ近くにありました。


阪神大震災に遭った時、
小さな長男と
乳呑み子の次男を抱えた私は
会社で宿直中だった夫と
3日間連絡が
取れないという、
非常に恐ろしい体験をしました。


余震が続く中
泣く息子達を抱きしめながら、

夫の身に何かあったら
どうやってこれからこの子達を
育てたらいいのだろうと
不安に怯えた記憶は、
今も私の中に鮮明です。


当時私は産休中で
息子達のそばにいましたが、

もしも震災が
昼間に起こっていて
私と夫が会社に出勤していたら
子供達は保育園で
どうなっていたのだろうかと
かなりゾッとしました。


その後夫が東京に転勤し
私は専業主婦になりましたが、

もしもまたお勤めする時は
何かあったら息子達の所に
すぐ駆けつけられる場所に
勤務しようと、
私は心に決めていました。


だから
今の家に移り住んだ後、

歩いて通勤出来る
今の会社の支社に
最初はパートで
就職したのでした。


私の会社の支社には
何百人も人が働いていて、
コロナ後は
別のフロアへの行き来が
基本出来なくなりました。


紙の書類もほとんどなくなって
なんでもパソコンで
メールでやり取りするように
なっていました。


会社を休み続ける私は
会社の資料が
何も手元になく、

会社の服務規定も
さっぱり読めないという
不便な事になりました。


その頃私は
毎日部署に電話して
Gさんに休みますと伝えるのが
本当にストレスでした。


「使うのは有給❔
ふぅん…。

わかりましたぁ。
お大事にしてくださ〜い。」


私が毎日休み続けても
Gさんからは
「大丈夫❔」
「どうしたの❔」などの
言葉がけは一切
ありませんでした。


あなたの体調には
興味も関心もないというような
Gさんのそっけない
冷たい声を聞くと
動悸がして、

私が元気になって
また会社に出社して
Gさんの目の前の席に座れる気が
全然しなくて、

絶望的な気持ちになって
電話を切った後
毎回泣いてしまうのでした。


メンタルクリニックで
適応障害と診断された時、

この症状を治す為に
私が出来る事は、

①会社を辞める
②会社を休む
③会社での自分のアプローチを変える

このどれかだと
言われました。


私は③をやってみますと
お医者さんに言って、
家に帰って来ました。


私は自分を守る為に
なんとか会社を
続けられるように、

それから思いつく限りの事は
全部しました。


Gさんにも他の人にも
言うことは全部言ったし、

思いつく限りの所へは
全部電話して相談しましたが
現状は変わりませんでした。


途中で体調が悪化して
結果的に
②会社を休むに
なってしまいました。


支社長は昨年の4月に
変わったばかりで
私はお目にかかった事も
お見かけした事もなく、

資料も手元にないので
お名前も顔もはっきり
わかりませんでした。


もう私は
自分にやれる事はやって
万策尽きたので、

もしも支社長に相談しても
状況が変わらないのであれば、

どうしようもないから
もう会社を辞めようと
この時私は思っていました。


続きます。