鎌倉旅行の初日に
坂東三十三観音札所の
杉本寺様へ
バスで向かう途中、

「鎌倉宮(大塔宮)」という
地名なのか神社なのか
よくわからない言葉を
見かけたのですキョロキョロ


夫に
「だいとうのみやって
何だろうね❔」と言うと、

「そう読む事もあるけど、
本当は、
おおとうのみやなんだよ。

もりなが親王の事だね。

もりよし親王とも
今は読まれるみたいだけど、
本当はもりながが
正しいんだ。」と
返事が返って来たので、

私は
「えっ、
護良親王!?ガーン」と驚いて、
急いでバスの中で
大塔宮の事を
調べ始めました。


私は昨年
吉野の桜が見たくて
夫と奈良に旅行した時に
金峯山寺様や
吉水神社様を巡って、

吉野という地が
後醍醐天皇と護良親王および
楠木正成公と村上義光公と
深いゆかりがある事を
初めて知りましたびっくり


私はそこで
護良親王と村上義光公の事を
詳しく調べて
楠木正成公よりも
さらにおいたわしいご最期を
知ったのですガーン


実は、
関西に住んでいた時
夫の職場のすぐ近くに
湊川神社様があり、

よくお参りしていた私達は
御祭神の楠木正成公に
かねてから
心を寄せておりましたおねがい


だから、
転勤で東京にやって来て
皇居で楠木正成公の銅像を
拝見した時は、

「なんで、
南朝の忠臣の像が
皇居にあるの!?びっくり」と
驚いたし、
すごく不思議に思いました。


その後、
楠木正成公が御祭神の
湊川神社様も
後醍醐天皇が御祭神の
吉野神宮様も
明治天皇が創建したと知り、

どうも、
明治天皇の所から
お血筋が北朝から
南朝に変わったらしいと
推察いたしました。


おそらく、
人間がすり替わったのでしょう。


京都では流石に
面が割れてますから、
それでどうしても
京都から江戸へ遷都しないと
いけなかったのでしょうね。


私はバスの中で色々調べて
大塔宮は還俗前の
護良親王の通称で、

明治天皇が鎌倉宮(大塔宮)様を
御祭神を護良親王として
創建したのだと知り、

やはり明治天皇は
南朝なのだなぁ…と
しみじみ思いました真顔


奈良旅行では
後醍醐天皇の御廟にも
楠木正成公の墓所にも
村上義光公の墓所にも
行かれなかったので、

これは鎌倉宮様に
行かなければ❗プンプン
私は思いました。


初日は
杉本寺様と鶴岡八幡宮様を
お参りしたら
時間がなくなり、
立ち寄れませんでした。


翌日家に帰る前に
鎌倉宮様に立ち寄りたいと
夫に言うと、

夫が「いいよ。」と
言ってくれたので、
良かった〜❗と
ホッとしました爆笑



大塔宮行きのバスは
本数が少なく、
私達は鎌倉駅からタクシーで
向かいました。


バス停の名前は
大塔宮で、
神社の名前は
鎌倉宮です。


鎌倉宮は後から出来たので
地名として定着しているのは
大塔宮のようです。


私達が
「おおとうのみやへ
行って下さい。」と言うと、

タクシーの運転手さんが
「だいとうのみやですね。」と
答えました。


後でウィキペディアで調べたら
護良親王の存命中は
おおとうのみやと呼ばれていた事は
間違いないけれど、

おかくれになった後は
早いうちからだいとうのみやと
人々は呼んでいたようですキョロキョロ






明治天皇がもし本当に
南朝のお血筋なら、

後醍醐天皇の親王は
八宮までいらっしゃるので、

そのいずれかのご子孫は
何世代も隠れ忍んで、
世に出る機会を
窺っていた訳です。


かつて人質だった
源頼朝公よりも
徳川家康公よりも、

長い歳月を支える為には
深く長い修養と
皇統復帰への不屈の精神が
必要だった事でしょう。


それだけに、
明治天皇におかれては
ご先祖様や忠臣への
鎮魂への思いは
ひとしお篤かったに
違いありません真顔



「建武中興記念祭」って
何なのだろうと思い
調べてみましたら、

鎌倉幕府滅亡後の
元弘3(1333)年
正月29日(新暦3月13日)に
後醍醐天皇が
元号を建武に改め、
建武の新政を始めたそうです。


明後日だわ❗びっくり



鳥居の横には
橘ならぬ蜜柑が
植えられていました🍊




将軍梅は
護良親王の弟宮である
征西将軍の懐良親王が
お手植えした梅から
実生した梅を、
九州八代から
移植したそうです。


古木なので
明治時代かしら…。



手水鉢に
何やら赤いものがある❗びっくり
近づいてみました。



どうして獅子頭が
こんなに❔と思い
調べてみると、

護良親王は兜の下に
獅子頭を入れていた事が
わかりましたびっくり


魔除けのお守りとして
頒布しているようです。



下の写真は南朝の系図と
摂社の村上社の
説明書きです。


村上義光公は吉野で
護良親王の鎧兜をつけて
身代わりとなって
護良親王を逃がし、
自分が亡くなったのです。


明治天皇は村上義光公に
従三位を追贈し、
村上社も創建したそうです。


(明治天皇は
自らが南朝だということを
全く憚ってませんね…タラー


鎌倉宮の護良親王の隣に
村上社の村上義光公が
並んでお祀りされている様子を
拝見したら、

感動で胸が
グッと熱くなりましたえーん


ここで共にお祀りされていて
良かった…悲しい


村上社には
艱難辛苦を乗り越え
窮地を脱するごりやくが
あるそうですおねがい



鎌倉宮に
向かって右側には
村上社があり、

向かって左側には
南方社があります。


護良親王が捕まって
鎌倉に護送される時、
お供は側室の南の御方しか
帯同を許されなかったそうです。


天台座主を務めたほど英明で
さらに武芸にも秀でた
勇猛果敢な護良親王は、
武力蜂起される事を
足利尊氏公から
厳しく警戒されたのですね。


南方社の例祭は3月3日で、
先週だったのだわ❗と
思いましたびっくり



鎌倉宮の宝物には
護良親王の直垂や
護良親王の座像が
あるそうです❗びっくり




英明な護良親王は
父の後醍醐天皇に
足利尊氏は危険だから
信用しないようにと
忠告したにもかかわらず、

その意見は容れられず
足利尊氏と護良親王とは
反目し合い、

後醍醐天皇は
息子の護良親王を
見殺しにしました。


結局、
後醍醐天皇は退けられ
隠岐に流されたのですから、

護良親王の言った事は
正しかった訳です。


護良親王の事跡と
その哀切極まりない

ご最期については

ウィキペディアに詳しいので、

ぜひ皆様もご覧いただけたらと

思います悲しい




私は夫と一緒に
どうか安らかに
成仏して下さいますようにと
いうことと、

この日本にずっと
戦争などの争いや
地震や津波などがなく、

人々がみないつまでも
幸せで暮らせますようにと
一生懸命祈りました。🙏



鎌倉宮様は
とても厳かな感じがする
神社でした。



お参りした後、
社務所に立ち寄りました。



社務所の周りは
可愛い雰囲気でした❤おねがい



社務所の横に
庭園入口があったので
入ってみる事にしましたニコニコ



庭園内には
明治天皇の御座所があり、

宝物や
護良親王騎馬像などが
展示されていました。






庭園の奥には
護良親王の御首を
置いたという場所が
あったのですが、
憚って撮影しませんでした。




庭園の一番奥、
本殿の真裏に
護良親王の土牢があると知り
行ってみました。



土牢はあまりにも狭くて、

いくら何でもこんな
狭い上に
奥まって寂しい場所に
長い間監禁するなんて、

トイレや警備の手間を考えると
無理があるなぁ…と
思ったので、

護良親王はおそらく
この近くにある屋敷内に
押し籠められていて
◯されたのだろうと
推察いたしました。


気も悪くなかったです。


ここでも夫と一緒に
私は本殿と同じ事を
祈りました。






鎌倉に来て
夫と無事お礼参りが
出来ただけでなく、

杉本寺様や安養院様など
坂東三十三観音の
素晴らしい札所を訪れて、

山門改修に寄進したり
北条政子様の墓所に
お詣り出来て、

最後に鎌倉宮様で
護良親王および村上義光公
南の御方の冥福を
祈るとともに、

世の安寧を祈念出来た事に
感謝いたします照れ