はじめにお断りいたしますが
私が今から書くことは
母と私達が実際に体験した事と
その感想です。


病院によっても
ケースによっても
対応が異なるであろう事は
私自身
よくわかっております。


これは私の日記で
私の個人的な体験や
感じた事を書いていますので、

お読みになって違うと思ったり
ご不快に感じられる場合は
どうかお読みにならず
そっと閉じて下さいますよう
お願いいたします。


母が緊急入院した総合病院
(MRIを毎月撮影していたのに
骨転移を半年間見過ごされて
椎間板ヘルニアと言われていた
整形外科がある病院の
別の病棟です)の
緩和ケア病棟は、

緩和ケアが目的の方は
病床数の関係からか
ほとんどいらっしゃらず、

終末期の患者さんが
ほとんどでした。


平均的な入院日数は
2週間と説明を受けましたが
母のように骨折で入院して
1か月以上滞在するのは稀で、

名札から見ると
もっと入れ替わりが激しい
印象でした。





20年以上前
祖母を看取ったホスピス
(緩和ケア病棟の
当時の呼び名)は
24時間何人でも
家族が出入り自由で
寝泊まりも出来たので、

私達は
祖母が亡くなる瞬間
みんなでそばにいる事が
出来ました。


祖母の時は
まさに緩和ケアとして
病院のホスピスに入院して、
そのまま亡くなるまで半年間
同じ部屋に滞在していました。


母が入院した緩和ケア病棟は
コロナ対策で1回15分
3人までしか
面会出来ませんでした。


叔父もそうでしたし
夫の母の心臓手術にいたっては
面会一切禁止でしたから、

コロナ以降
今は面会については
大体どの病院も
同じような感じだと思います。


当たり前の事ですが
緩和ケア病棟に限らず
病院に入院した場合は
看護師さんやお医者様は
つきっきりではないので、

ナースコールを押さない限り
医療を受ける時以外は
通常決められた時間しか
回診に来てくれません。


両脚骨折で歩けなくなり
排泄が自力で出来なくなり
紙オムツになったとはいえ、

緩和ケア病棟での母は
ベッドを起こして
普通に話せて
普通に食事も出来て、
入院中ずっと
比較的元気でした。


けれど携帯の使い方が
わからなくなったり
複雑な会話が出来なくなって
テレビをつけても本を見ても
内容がわからなくなったりと
少しずつ認知機能が
落ちていて、

私達が面会する時以外は
何もせず誰とも話さず
ただベッドに寝ているだけという
日々でした。


私達がそばにいないので
人恋しく不安な母は
ナースコールを毎日何回も
押していたようです。


実際、
ベッドを上げたり下げたり
お茶を飲みたい時や
何かものを取りたい時は
看護師さんを
呼ぶしかないので、
これは仕方ない事です。


初めの頃はせん妄もあり
カテーテルを抜いたり
立ち上がったりしたので、
母は入院中はずっと
ナースステーションの
目の前の部屋に
入院していました。


ナースステーションの
目の前の部屋は
母のように比較的元気で
手のかかる患者さんか、

今にも亡くなりそうな
危険な状態の方が
いらっしゃったように
私達は感じました。


比較的元気な方が
急性症状で亡くなる場合は
ナースコールを自分で
押せるでしょうけれど、

終末期の患者さんは
文字通り
今際の際の状態ですから、
ナースコールはもう
自分で押せません。


だから
緩和ケア病棟の患者さんは
ほとんどの場合
看護師さんが来た時に
亡くなっている事に気づくように
私達と母からは
見受けられました。


母は骨折という急性症状で
入院する事になったので、
緩和ケア病棟では
ほぼ健常体といって
差し支えない患者でした。


お医者様からも
「◯◯さんはこの病棟では
スーパーマンです」と
言われました。


緩和ケア病棟は
病棟全体で15分ごとに
きっちり一組しか
面会を受けません。


他の面会の人と行きあう事は
一度もありませんでした。


私達が面会に行くと
どの部屋もどのベッドも
いつも本当に静かで、
看護師さん同士の会話や
看護師さんの呼びかけの声しか
聞こえませんでした。


母は
「隣の人はまた変わった」
「昨日の夜
人がたくさん出入りした」と
よく教えてくれました。


私と妹は交代で
毎日面会に行きました。


もうラインが出来ず
見る方法も
わからなくなってしまった母は、

明日は◯が何時に面会に行くよと
前日に伝えると、

面会を待ちわび過ぎて
待ち切れなくて、

その時間よりも大分前に
その日面会する人に
何回も電話を
かけてくるのでした。


時計がまだ読めて
日にちと時間の概念が
まだ残っていて、

母の携帯にかけても
出方を忘れてしまって
もう私達の電話に
出られない母は、

着信履歴から妹か私に
電話をかける事だけは
まだ出来ました。


私達が面会に行くと
母は大体寝ていますが
起きている時もありました。


起こそうと声をかけると
「はい」「なんでしょうか」と
母が返事をするので、
看護師さんと間違えているのだなと
私達は母が可愛らしく、
そして悲しく
思いました。


面会の時はいつも
母の手を握りながら
話をしました。


母は「少し起こして」と言ったり
「寝たままでいい」と
言ったりして、

私達はベッドを
起こしたりそのままにしたりして
母と話しました。


ちゃんと食べているのに
母の手と体は
入院してからめっきり痩せて、

あんなにふっくらしていたのに
薄くぺたんこに
なってしまいました。


「こんなに痩せちゃって…」と
母自身も言って、
自分で手をさすっていました。


病院は乾燥しているので
私は行くといつも
母の顔と手にクリームを塗って
リップをつけていました。


そして子供達の事や
母の友達から連絡が来たとか
お見舞いをいただいたとか、
他愛もない話を
いつもしていました。


姪っ子や甥っ子や
私の家族も来て、
母と面会しました。


そんな中で、
私が一生の宝物にして
胸に抱いてこれからも
生きていける、

上のブログのような
ご褒美の言葉を
母から言ってもらう事が
出来ました。


次の面会の方も
いらっしゃるので
15分は正確に計られており、
いつもあっという間に
終わってしまいます。


ナースステーションから
チーンと鐘の音がすると、
看護師さんが私達を
迎えに来るのです。


子供のように
あどけなくなった母は
面会終了を
いつもとてもさみしがって、
「もう行っちゃうの❔」
「まだここにいて」
「次はいつ来るの❔」と
私達の手を離さずに
尋ねるのです。


私達は
「また来るよ。」
「明日は◯が来るからね。」
「大好きだよ。」などと
声をかけて、
母と握手かハグをしてから
バイバイして帰るのが
常でした。


すっかり面差しが
細くなった母の顔と
不安そうなその目を見ると、

私達は胸が締め付けられて
帰りの車の中では
きまって泣いてしまうのでした。


緩和ケア病棟では
母がいる部屋のせいもあるのか
本当に、

毎日あっという間に
患者さんがいなくなって
そのカーテンが開かれ、

ベッドが空になったかと思うと
また新しい患者さんが
次々入って来ました。


30年以上前
私の父は瀕◯の状態で
父の親戚によって
1人で電車に乗せられて
お正月前に帰って来て、

入院して1か月で
誰にも看取られずに
夜中に病院で
亡くなりました。


おそらく何時間か
気づかれなかったので
私達が駆けつけると
父は目も口も開けたまま
◯後硬直が
始まっていました。


祖母は昔から
母に繰り返し、
「人が亡くなる時は
冥土と言って
最初は真っ暗闇になる。

それはとても怖くて
心細い事だから、

人が亡くなる時には
手を握ってあげないと
いけないよ」と
語り聞かせていたそうです。


祖母は曾祖母や祖父を
長年自宅で介護して
看取りましたが、

最期の時には
ずっと曾祖母や祖父の
手を握っていました。


曽祖父は
まだ50代なのに
檀家さんで読経中に
脳溢血で亡くなりました。


18歳で女学校の授業中で
間に合わなかった祖母は
おそらく、

次は絶対にそばにいたいと
思ったのだろうと
思います。


私達は父の時は
誰もそばに
いられませんでした。


だから祖母の時は
ずっとそばにいました。


緩和ケア病棟にいれば
何かあった時は
すぐ医療が
受けられるけれど、
私達はその時
多分間に合わない。


本当の終末期になれば
母はナースコールも
押す事は出来なくなる。


もしも寝ていて急に
苦しくなった時、
誰も来てくれなかったら
どうしよう❔という不安を
母はずっと抱いていて、

私達にその不安を
訴えていました。


同じ不安は
私達も持っていて、

だけど病院にいても
在宅介護であっても、

24時間家族が
見守らない限り
いずれにせよ
母が息が出来ない、
胸が苦しいと訴えた時に
すぐに看護師さんや
お医者様を呼ぶのは
不可能なので、

どうしたらいいのかと
悩んでいました。


続きます。