昨日、
根来寺様への初参詣について
ブログに書こうとした所、
なぜか何度やっても
記事の下半分が消えてしまう
現象が続きました。
そこでハッと気づいて
大黒様の事を書いた部分を
消したところ、
無事残せました。
私はこの度
有り難いお導きにより、
祖父母の寺の
真言宗智山派の開祖である、
覚鑁上人が開創した根来寺様へと
高野山に上る前に
辿り着く事が出来ました。
また、
たまたまお昼を食べに
立ち寄った
ねごろ歴史の丘では、
根来寺様の歴史について
事前に学ぶ事が出来ました。
さらに、
本坊の入口では
聖天堂のお下がりの歓喜団を
有り難く頂戴する事まで
叶いました。
さらに、
高野山で弘法大師空海様の御廟に
お詣りする前に
興教大師覚鑁上人の御廟に
お詣りする事が出来て
感謝と感激とで
涙にむせんだというのに、
それなのに、
左甚五郎様作の
大変篤い信仰を集める
大黒様の事をそしるつもりは
けしてなかったとしても
失礼な事を
書いてしまった私を、
未然に止めていただけた
この有り難さ…。
このように
すぐに慢心する自分を
猛烈に反省しました。
教えていただけて
本当に有り難かったし、
誰の目にも触れなくて
本当に良かったです。
こんな駄目な自分を
いつも導いて下さって
感謝しかありません。
残せなかった後半部分は
今から清新な気持ちで
書きたいと思います。
ねごろ歴史資料館の時に
既に書きましたけれど、
根来寺様でいただいた
案内に書かれた根来寺様のご由緒を
ここに書き写したいと
思います。
根来寺様は長承元(1132)年
高野山に開かれた
大伝法院を始まりとする
新義真言宗の総本山です。
興教大師覚鑁上人は
嘉保2(1095)年肥前に生まれ
13歳で仁和寺の
寛助僧正について出家し、
京都と奈良で勉学に励んだ後
20歳で高野山に登ります。
当時の高野山は衰退していた為
弘法大師の真言密教を
正しく伝える必要を痛感した
覚鑁上人は、
鳥羽上皇の庇護を得て
伝法会の再興を成し遂げ
教学の興隆に専念しました。
しかし名声が上がるにつれ
高野衆徒との間に不和を生じ
荘園領地内の末寺である
豊福寺のある根来に移り
康治2(1143)年49歳で
生涯を閉じられます。
13世紀に頼瑜僧正が
新義教学の確立という大業を成し遂げ
15〜16世紀には全国から
僧侶が集まる大寺院として
繁栄しますが、
天正13(1585)年
豊臣秀吉公の焼き討ちに遭い
大塔などの主要伽藍を残して
全山焼失します。
しかし紀州徳川家の庇護のもと
江戸時代には覚鑁上人の霊跡として
復興を遂げ、
現在の敷地は36万坪あり
中世の趣を遺す境内は
平成19年に国指定史跡に
なりました。
高野山衆徒に寺院を焼かれ、
山を下りて興隆するも
豊臣秀吉公に焼かれ、
何度も伽藍を失ってもなお
不死鳥のごとく蘇り、
教学の法灯は今も消えずに
ここに確かに根来寺様が
佇んでいるという事に
強く勇気づけられます。
私も何があっても
前を向いて歩くんだと、
心を新たにしました。
光明真言殿は
令和元年に重要文化財に
指定されたそうです。
紀州徳川家のお位牌や
歴代座主や信徒の方のお位牌が
お祀りされていると共に
興教大師覚鑁上人の御尊像も
奉安されていました。
結界から内側へは入れないので
外側から礼拝しました。
なんて有り難いことでしょう❤
私は他の人と一緒に
神社仏閣巡りをすると
基本何も
キャッチ出来なくなりますが、
なぜか不思議なことに
夫の希望だったり
偶然立ち寄ったりして、
私達にとって
一番良い場所へと
いつも導かれます。
光明真言殿横の
赤銅のシンクには
お供えの為の樒が
バケツいっぱいに
入れられていて
いいなぁ…と思いました。🌿
回廊を渡って
光明真言殿へ戻りました。
外に出ると、
左官屋さんが
床下の土壇を
藁すさを混ぜた土で
補修していました。
私達がここまで巡ったのは
根来寺様の西側エリアでした。
この後、いよいよ私達は
根来寺様の中心である
大伝法院がある東側へと
向かいました。
ここまで大黒様、
観音様、歓喜天様、
役行者様、
覚鑁上人様にご挨拶出来た事に
感謝いたします。
続きます。