暑い。夏真っ盛り。すこぶる夏。夏すこぶりすぎ。

まぁエアコンつけてるから涼しいんだけど。

 

このブログを舞台感想用にしようと思い立ったのは、この『うるう』の感想を文字で、オンラインで残しておきたかったというのが大きい。小林賢太郎ファンなら殆どの人が言うと思うけど、私にとっても例外なくこの作品は特別なのだ。

一番とか、そういうのじゃない、特別枠。

 

なぜこの暑い時期に書いているか。昨日(8/12)BDとDVDが届いたからだ。まだ見てない。てか開けてない。

実家に帰れないこともありまとまった時間がある。書くなら今しかない、と思った。

張り切って早起きしたわりにはゲームとかネットサーフィンしちゃってもう昼。どこまでいけるかな。

 

 

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小林賢太郎演劇作品 K.K.P.#8『うるう』

スタジオコンテナ

 

観劇は二度。

初回は2020年2月24日(月・祝) 14時公演 於KAAT神奈川芸術劇場 ホール

二回目は2020年2月29日(土) 14時公演 於サンケイホールブリーゼ

 

『うるう』は、2012年、2016年、そして2020年と3回開演された。私は初演からチケットを申込んではいたが、まんまとうるう日だけ狙ったのでハズレ。再演も同様。今回の再再演でやっとお目にかかることができた。しかもうるう日に。

このフライヤーを手にする日をどれだけ待ちわびたか。8年…。

いろんな事が重なってぎりぎりの中で観に行けた、私にとっては奇跡的な公演。神様が「今回が最後だからそんなに観たいなら行っておいで」と、私に行くことを許してくれたと思う。わりとガチでそう思ってる。

少しでも状況が違っていたらきっと行けてなかった。感謝しかない。

 

ここ最近、KK作品はできるだけBDを買うようにしているけど、DVDと両方買ったのは今回が初めて。BDが見られない環境でも見れるように整えておきたかった。

まず、映像を見る前段階での感想をある程度書いておきたいと思う。一度映像を見てしまうと、記憶はそちらにほぼ上書きされてしまう。忘れちゃった部分は多いけど、それでも上書きされていないものを残しておきたい。

 

まず前提として、私は『うるう』についてわりとネタバレを踏んでから観に行っている。カジャラ3以降、KKに突如再熱した私は持っていなかった円盤などを集めだした。実際、K.K.P.ではロールシャッハや振りチー、ノケモノなど劇場に観に行ったけど円盤は買ってなかったものなどもあった。その中で『うるう』だけが円盤になっていない事実を再確認した。何となく知ってはいたが、やっぱりないことにショックを受け、その反動でどうしても気になり出してしまい、いろんなブログやらを見あさっていた。おおかたの設定と話の流れは知った状態で観に行った。

 

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私が横浜でいよいよ初『うるう』を迎えて一番初めに抱いた感想は、「予想外」だった。

感動する、美しい、などという感想ばかり目にしてきた私は、感動的で繊細な一人芝居を想定していた。しかし実際そこにあったのは、「コント」であって「パフォーマンス」だった。観終わったとき、感動もあったけど驚きでいっぱいだったのをよく覚えている。イメージとしては、もっと「静」が多いのかと思っていた。

ああ、そうだ。この人はコントを作る人だった、と思い出した。笑わせたくて、不思議なことをやりたくて、美しいものが見せたくて、感動させたい。そういう意味で、とても彼らしい作品だった。彼がHP内のコメントで「僕そのもの」と言ったのは、本当にその通りだと思う。

参考

 

横浜で最初観た時は前から2列目にいたので、幕の向こうで青弦さんがスタンバイするのがサスに照らされてうっすら見えるのだ。あの時の「私だけ見えてる感」がすごかった。もちろんそんなことないだろうけど。周りがまだお喋りしてる中ひとりだけ先に始まった気がして、ひそかに興奮した。

 

そうして始まるチェロの音色は、この『うるう』の美しさの半分、もしくはそれ以上を占めているといってもいいと思う。私は再再演にしてようやくこの美しさに触れたけど、あれが8年も前からあったと思うと言葉が出ない。チェロを、というか楽器をそんな風に使う人が今までいたのかな。その音色が何を示すのか分かるたびに、心の中で感嘆が絶えなかった。

ずっと耳に心地よく残る。ずっとずっと聴いていたい。

 

私が一番好きなシーンは秘密の畑のシーンだ。それはきっと最初に2列目という近さで観たからというのが大きいだろう。あの近さだと、野菜たちがきらきら光ってるのが見えて、視界いっぱいにあの畑が広がっていて、心に幸せが満たされた。出てくるひとつひとつが綺麗で清らかで、感動が満たされすぎて心の器が足りなかった。

暗い森の奥にひっそりとしまわれているそれは、ヨイチの心の真ん中にある宝箱に大切に握りしめられている希望のように思えた。「時間」というものにコンプレックスがあるヨイチにとって、その「時間」を喜びとして受け止められる唯一のものだったのかな、なんて思った。それをマジルと共有することで、幸せが何倍にもなったように見えた。

最後、マジルと再会するシーンでうちらが喜びを感じるように、幸せは人と共有するから、自分だけではわからない幸せを得られるんだと教えられた気がした。

 

『うるう』の見所なんて挙げればいくらでも出てくるだろうけど、そのひとつにKKの歌がある。彼は今までも歌ネタはたくさんやっているが、ネタとしてではなくまじめに?歌っているのはレアだ。『うるう』では彼がちゃんと歌っているのを聞くことができる。私にとっては結構ポイントが高い。

最後の再会の時、ヨイチが『まちぼうけ』歌いだしたときの衝撃は忘れられない。息が止まった気がする。そんなことがあるのか、と思った。『まちぼうけ』の歌はネタバレ見たときに知ってたけど、そんな風になってるなんて知らなかった。皆きっとネタバレにならないよう配慮してくれていたんだろう。そこからのオチで、最後の最後に衝撃を食らった。『うるう』のすべてがあのシーンのために動いているように思える。サントラで『再会』を何度も聞いてしまう。映像見たらどう思うんだろうか。

あんなに幸せな『カノン』を、私は知らない。

 

 

二度目の『うるう』はうるう日。待ちに待ったこの日。マスクをして緊張しながら前日の夜行バスで大阪へ。心なしか乗っている人は少なかった。

友達から「今日『うるう』だよね?楽しんでね」とLINEが来てとても嬉しかった。

 

午前中はカフェで横浜公演のアンケートを書く。そして適当に見つけた『カノン』を耳で聴きながら『うるうのもり』を読んだ。1年半前に買って、この日までずっと眠らせてた。舞台を先に見たかったから、きっと再再演があるはずと信じて開いてこなかった自分を褒めてあげたい。

絵本を先に見た友人からは「絵本に出てきたアレだ!ってなるよ」と言われていたので、二公演の間に読むことにした。『うるう』本当の大千秋楽のうるう日に初めて開いた記念。本当に『うるう』づくし。

 

初回の2列目からだいぶ遠のいて2階の下手端っこへ。遠くて残念、と思っていたのも束の間、そこから見る全体図はまるでフライヤーそのものだった。森も配置も照明も。前回は近すぎてそこに意識がいかなかったが、2階に上がってようやく気づくことができた。

また、マジルにサスが当たっているのも2階席に来て初めて気づいた。2列目だとまず床がほぼ見えない。野菜がぎりぎり見えるくらいだ。これはどのあたりの席から見えはじめるのか分からないけど、2階席だからこそはっきり気付けたと思う。

初回をマジル目線だとすれば、二回目はグランダールボ目線だ。ヨイチが2階席に向かって話しかけてた。フライヤーの真ん中の木がグランダールボかな。

贅沢な二回だったんだな。もれなく。

 

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さて、いよいよ映像を見る。今までの感想をすべて出し切ったかといえばよく分からないけど、もうここで見なければタイミングがないなと思うので見ることにする。

 

 

~はいっ。森に行ってきました(ここで2日経ってます)。2時間、思いのほかあっという間すぎた。内容からして、おそらく私が観た回ではなさそう。

映像を見た最初の感想は「なるほどこうなるのか」だった。それ感想って言えるんか。

編集のされ方がちょっと意外だった。カジャラ4以降、大きめのアップを増やしているように思えるが、『うるう』も例外ではなかった。まだ一回しか見ていないので、まずはそれを受け取ったという感じ。

あと、なぜか分からないけど、劇場で見た時より笑った気がする。ひとりで見たけど声出して何回も笑った。アップが多かったからつられたのかな。

 

映像を見て、私が書き残したいことは3つ。

 

まず、先ほど述べたアップについて。要するにKKの表情のアップがわりとある。一人芝居なのでまぁそうか。これは映像の醍醐味と言える。

いくら2列目で見たといえど、細かい表情まですべて見れるわけではない。それが画面でアップになることで必然的に彼の表情にフォーカスが当たる。彼の表情、特に目元がどうなっているのか見れたのは、映像を見た一番の収穫だったと思う。そうすることで、舞台で観たときよりも彼の心がすっと入ってきた。ドクダミのくだりは最高だったなww

一番最後の、幕が閉まる直前にちらっと写ったあの表情。とても、とてもよかった。映像を見て、一番「よかった」と思える瞬間だった。

 

あと音楽。サントラで聞いたものよりも少しペースが速いと思う瞬間がいくつかあった(サントラは一部曲しか聞いていない)。私が実際に劇場で聞いたものがどうだったか、はっきり覚えていなくて比較できないのが残念なところだ。でも、サントラにしてくれたことで綺麗な整った状態で聞くことができるのはありがたい。

 

最後に、舞台で、その場でしか得られないものが確かにあったんだということ。

今後『うるう』を見るときは必ずこの映像を見ることになる。私の記憶の中に残っているビジュアルや感覚は再生することができない。私が見えなかった視界や世界を映像を通して見ることが出来るのと同時に、私が自分の目で見た視界やその時に感じたものは映像の中には入っていない。今日映像を見て、私の中にしかない確かな記憶があることを確信することができた。それがとても嬉しかった。時間が経つにつれてきっと薄れていってしまうだろうけど、でも確かに、私があの時あの場所からしか見えなかった視界があって、それは私だけが私の中だけに残していけるものだ。どんなに言葉にしても伝えることはできない。カジャラ3の時も感じたことだ。忘れていった記憶が映像を見るたびに上書きされていっても、それが消えてしまわないようにずっと大事にしていきたい。

やっぱり、舞台はいい。生きてるって感じがする。

 

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私は物語の考察やらが得意ではない。頭の回転も推察力も鈍い。だからこれがこういう意味だ、とかは知って感心したり感動したりするものの、そこに自力で注力しようとはならない。

本当はそういうの考えられればより深く楽しめると思うけど、それは私が見つけた時に感動しようと思う。私はただ私が思ったことを書く。

 

ヨイチとマジルのことを考えながら、先日ふと思いついたことがあった。マジルはまるで、イエス様みたいだなぁということ。

ヨイチは、ずっと「独り」を抱えて生きてきた。誰かとずっと一緒にいることが叶わなくて、誰かを好きになることも、友達をつくることも諦め、人そのものから離れて暮らした。間接的に眺めながら。

その「孤独」は、彼にとって解決できない問題だった。彼が生涯を終えるまで、ずっと抱えて生きていかなければならない。自分も、人でも解決できない、どうしようもない問題。運命を呪ったところで、気持ちの行き場もない。

 

そこにひょんなことから少年マジルが現れた。彼はヨイチとは正反対の存在。クラスの人気者で才能もある。性格もいい。唯一の共通点はうるう日生まれ。本来であれば、マジルがヨイチに惹かれるような要素はさしてない。境遇も正反対、年齢も全然違う。ヨイチがマジルに提供できるような芸や技みたいなものが特にあるわけでもなければ、共通の趣味や話題があるわけでもない。そもそも出会いが普通じゃない、ちょっと怖いくらいだ。でもマジルは不思議とヨイチに懐く。はっきりした理由はわからない。ただ「友達になりたい」と言い続けた。

 

それでもヨイチはマジルを突き放す。友達になりたくてたまらない。会いに来てくれるのが嬉しくて仕方がない。また明日も会いたい。会って話したり、楽しいことを一緒にやったりして笑い合いたい。でも、その先どうなるか、嫌というほど分かる。その「別れ」はヨイチを「独り」にならしめた、もう二度と出会いたくないほど辛いもの。一度去りかけた「孤独」が忘れた頃に帰ってくるときの絶望感。治りかけた傷が深く開く。あの時友達になっていなければ…と、思うことだけはしたくない。やっぱり、この問題を解決するのは無理なんだ。独りでいるしかないんだ。彼の抱える闇は、さらに深く色づいたように見えた。

 

でも、マジルはヨイチのもとに戻ってくる。40年の時を経て。

マジルは、したたかに時を待った。自分がヨイチと同じ48歳になるその時を。「友達っていうのは、だいたい同い年ぐらいのやつがなるものなんだ」とヨイチが言ったから。マジルの中にあったのは、「友達になりたい」という思い、ただそれだけ。ヨイチから何かが欲しかったわけではなく、彼に何かして欲しかったわけでもない。ただ「友達になりたい」、そのチャンスを定めて待った。交わした、というほどでもないくらいのささやかな、でも確かに覚えている約束を携えて。

本編には、上記のようなマジルの心情も、ヨイチとの再会後の話も描かれてはいない。でもマジルはヨイチに近づくことをやめなかった。彼の境遇を知っても、自分を拒んで突き放しても。それはヨイチが「独り」で生きていた40年間も、彼を想い続けた一人の人が確かにいたことになる。ヨイチがマジルを友達じゃないと思っていても、マジルにとってはずっと「友達になりたい人」だった。ヨイチがずっと自分を「孤独」だと思っていたけれど、実際はそうじゃなかった。ヨイチが見えていなくても、ずっと彼は「独り」ではなかった。まるで長い長い夜の後、射し込む朝日を見て太陽がそこにあったことを思い出すように。

 

そう考えると、マジルはイエス様にとてもよく似てる。イエス様も、「独り」の人に近づいて友達になってくれる人だ。自分が何か持ってるからでも、自分が何かできるからでもない。ただ「友達になりたい」と言ってくれる。私が嫌だと跳ね返しても、時が来るまでずっと待ってる。私が忘れても、私が気付かなくても、ずっと見守っていてくれる。観たときはそんなこと思わなかったけど、最近突然そう思った。

マジルがヨイチのもとに戻ってきたからといって、彼らの境遇が変わるわけではない。相変わらずヨイチは4年に一度しか歳を取らないし、マジルは翌年には49歳になる。ヨイチを追い越して、マジルがおじいさんになっていく。変わらず、別れは訪れる。でも、マジルがヨイチの友達になってくれたことは、彼の「孤独」に対する大きな傷を覆ってくれたのではないかと思う。ヨイチの境遇は一生残る傷であることは変わらない。でも、たったひとりの「友達」がいたことが、同時に一生残る癒しになった。ヨイチは、マジルと友達になれてよかったと思うことができるんじゃないかな。きっとそのことが彼をずっと支えていってくれると思う。

たったひとり「友達」ができたことが、彼の生涯どうすることもできない、誰にも解決することができないと思ってた「孤独」を拭ってくれた。彼はもう「独り」ではない。たったひとりとの出会いで、彼の人生が180度変わった。本当にイエス様みたいだなぁ。

 

 

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とまぁ、感想はこんなところかな。

たぶん時間を重ねて、また新しく思うことがあるんだろうな。自分がヨイチと同い年になった時、何を思うんだろう。

とにかく、結論としては「『うるう』を観に行けて本当に良かった。しかもうるう日に」ということです。これが全てです。

 

いつでも見れるように円盤持ってるけど、せっかくだから4年後に見ようかな?これからうるう年が毎回楽しみになるね。

友達と見る約束はしてるので、それは例外ということで。

 

もし、うるう日に生まれて辛い思いをしていた人がこれを見て希望をもらえたら、こんなに素晴らしいことはないよね。ほんと、粋な作品。

粋な男、小林賢太郎。

 

それでは。また四年後に。

ここまで読んで下さってありがとうございました。