「失われたアフリカの歴史」-17(スワヒリ人とアラブ人)
「混乱のいくつかの原因は、自ら招いたものです。
というのはスワヒリ人のイスラム教徒の中には宗教的な立場から、
自分たちはアラブ人だと思いたがる人が多いのです。そしてそこにある文化遺産の中から、
アフリカの痕跡を消してしまおうと目論む外部の人たちの人種差別的な抵抗が加わって、
その結果、自分たちをアラブ人だと考えてしまいがちです。さらに西欧人のオブザーバーたちは、
人種差別的な理由からアラブとスワヒリ人を同等なものとみなします。
この2つの理由が絡み合って混乱が生じてしまったのです。」
というのはスワヒリ人のイスラム教徒の中には宗教的な立場から、
自分たちはアラブ人だと思いたがる人が多いのです。そしてそこにある文化遺産の中から、
アフリカの痕跡を消してしまおうと目論む外部の人たちの人種差別的な抵抗が加わって、
その結果、自分たちをアラブ人だと考えてしまいがちです。さらに西欧人のオブザーバーたちは、
人種差別的な理由からアラブとスワヒリ人を同等なものとみなします。
この2つの理由が絡み合って混乱が生じてしまったのです。」
ラム島のように立派に造成されている町を見ると、そこから発散される力は否定のしようもありません。
玄関に施された木彫り模様は、典型的なスワヒリの意匠です。
おそらく何世紀かむかし、インドの職人がアフリカを訪れ、複雑な模様を木に施すことを教えたのでしょう。
そしてスワヒリ人は、こうした技術を吸収し、自分たちの文化に合うように手を加えていったのでしょう。
家の壁に彫られている複雑な模様は、最初はおそらくペルシャ人が教えたものでしょう。
しかし今日では生乾きのしっくいをスワヒリ職人たちは使っています。
玄関に施された木彫り模様は、典型的なスワヒリの意匠です。
おそらく何世紀かむかし、インドの職人がアフリカを訪れ、複雑な模様を木に施すことを教えたのでしょう。
そしてスワヒリ人は、こうした技術を吸収し、自分たちの文化に合うように手を加えていったのでしょう。
家の壁に彫られている複雑な模様は、最初はおそらくペルシャ人が教えたものでしょう。
しかし今日では生乾きのしっくいをスワヒリ職人たちは使っています。
6世紀前には裕福なアフリカ商人たちは、優れた職人たちを集めて、繊細な装飾を施した館を建てていました。
ラムの町は、中世のベネチアのように洗練されていたのです。
これらの豪壮な館は、アラビアから来た人々とインドから来た人々との間に、貿易を元に築かれたものです。
今日ではかつての貿易は姿を消し、もっぱら観光にたよっています。
しかし、町の様子は昔のままの姿で残されています。狭い道路にはロバが行きかっています。
自動車が通るには狭すぎるのです。
ラムの町は、中世のベネチアのように洗練されていたのです。
これらの豪壮な館は、アラビアから来た人々とインドから来た人々との間に、貿易を元に築かれたものです。
今日ではかつての貿易は姿を消し、もっぱら観光にたよっています。
しかし、町の様子は昔のままの姿で残されています。狭い道路にはロバが行きかっています。
自動車が通るには狭すぎるのです。
昔ながらのフタをしていない下水が道に沿って曲がりくねって流れています。
迷路のようなラムの町の道路は、東海岸の廃墟と同じものを見せてくれます。
迷路のようなラムの町の道路は、東海岸の廃墟と同じものを見せてくれます。
1500年代には、こうした町は廃墟となってしまいました。
あのように繁栄した商業がなぜ衰退してしまったのかは、はっきりしません。
貿易によってあらゆる人がうるおいました。黄金を掘る人、スワヒリの仲介業者、商人、船乗り、
そしてヨーロッパから中国までもの消費者までもがうるおったのです。
あのように繁栄した商業がなぜ衰退してしまったのかは、はっきりしません。
貿易によってあらゆる人がうるおいました。黄金を掘る人、スワヒリの仲介業者、商人、船乗り、
そしてヨーロッパから中国までもの消費者までもがうるおったのです。
