盛岡市の盛南地区と盛岡の玄関口、盛岡駅を直結するシンボルロードが開通した。

「杜の大橋」からの景色がよいという話だ。

ウォーキングやサイクリングのコースにはよさそう。

夜の盛南地区は、街中の明るさとはまた違った明るさがある。

イオンができて、杜の道ができて、一昔前とは風景がすっかり変わってしまった。

夜の杜の道を車で走った。

個人的には、盛南大橋より気に入った。

県立美術館の灯りはいい感じに思えたけれども、本宮のイオンのライトはなんだか度が過ぎる気がした。

雪が積もれば、デコレーションケーキを飾るろうそくの灯のようにも見えるかもしれない。

控えめな灯りが揺れるのを見ていると、癒される気がする。

霧のような雲の向こうは雪。

南昌山の頂も白くなった。

冬の始めの雲は気まぐれで、目まぐるしくて、落ち着きがなくて。

上の橋のたもとのイチョウの木は、ようやく全体が色づいてきたところだろうか。

すっかり葉が落ちたイチョウの木もあるのに。

今年はなんだか秋を満喫していない気がする。


陰影のない真っ白な雲も、何だか冬の雲らしく見える。

雲の陰からのぞいた岩手山はまた白い雪をまとっていた。

近場の山は、まだ色とりどりの木々の葉で覆われているけれども、遠くの山には雪が降る。

吹く風はたしかに冷たくて、温暖な地域の真冬はこんな感じだろうと思わせる。

しかし、岩手の冬はまだまだこれから。

そろそろ冬支度をしなくては。


紅葉も何となく宙ぶらりんなまま。

歩道を埋め尽くすような落ち葉。

冬の足音は一気に押し寄せてきた。

雲の形は、冬のそれ。

陰影深い、灰色。

岩手山はきっと雪が降っているに違いないと、じらじらした雲の向こう側を思う。


秋空の雲を眺めるのもよいものだ。

しかし、秋はもう少しからっと乾いていなかったのだろうか。

まだ草は緑色がたくさん残っているし、木の葉も落葉が盛んではないし。

柿の実の色づきを見ると、秋だなあって思う。

オレンジ色のかぼちゃもよいアクセントになるのだろうなと最近は思う。


岩手山はこのところの寒さで、雪も積もったのだろうかと思ったけれども、まだまだ秋の色だった。

岩手山がじらじらした雲に隠れていると、雪が降っているのかなと思っていたから。

秋の色をした暖色系に見える岩手山も気に入っている。

日の入りの頃の空の色もあいまいなピンクとかオレンジ色で、あいまいなのもいいと思わせるようだ。



昔は、黄色やオレンジ色の紅葉が秋を感じさせると思っていたのだけれども、最近は、燃える炎よりも紅く色づいた木々の葉に心ひかれている。

どこかの庭先で前足を舐めている真っ黒な猫の舌は、ドウダンツツジの葉先のようだ。

私が通りすがりに見かけるナナカマドの木は、まだ色づくには早いようだ。

今日は冬ではなく秋の匂いだった。

花よりも葉が美しくなるこの季節。

私も落葉樹のように変われたらいいのに。

どこかがくすぶり続けたままでも、秋は深まる。

私の心が揺れようが、凪いでいようが。

明日の天気はわからないから、今日行かなくては。

もうひとつの岩手山の姿を紅葉の向こうに眺めた。

普段、見慣れている盛岡から眺める岩手山の姿とは違う、だけどこれも岩手山の姿だ。

大きくて、いかつい、素朴というよりもぶっきらぼうな岩手山。

こっちの方が素の姿かもしれないなと思いつつ。

それでも、毎日の生活の中で、見慣れた片富士の岩手山が見えるとホッとするのだけれども。


岩手山のふもとは、静かで風の音さえも違うように聴こえる。

枯葉が立てる音も、街中のそれとは違うように聴こえる。

仰ぐ空も、あんなに広いと感じる盛南地区の空とは比べものにならないくらいにどこまでも続いている。

何もないということが、こんなに心地よいなんて。

握りしめているものを手放せば、きっと楽になるに違いない。

わかっているのだけれども、手を広げることが不安なのだ。


傷心の秋は、人が訪れないところを一人で歩くと、安心して自然に癒してもらえる気がする。

人がいない安心感と不安感は代わる代わるやってくるけれども、一人でいる実感を意識できるのがいい。


colored leaves

「岩手山がきれいだね。」

とさえぎるものが何もない場所からの岩手山を見て、誰かが言った。

青い空によく映える岩手山を見ると、癒される気がする。

秋の空はまだまだ満喫することが出来そうだ。

へこんだ心をふくらませたら、気分がいいだろうなと思う高い秋の空だ。


ところどころ、木の葉の色も移り変わっているのだけれども、私が一番心ひかれるのは、盛岡赤十字病院のロータリー付近にある燃えるような緋色の紅葉だ。

春に咲く花の色鮮やかさとはまた違う、心の底から燃えるような色は、一つの意思にも似ているようだ。


通りすがりの盛岡町屋。

初めて足を踏み入れた。

場所は盛岡市鉈屋町。

大慈清水から始まる。

いつも毎月第二土曜日に開催されている。


吉田家町屋に入ってみる。

築135年の家屋(昔は靴屋さん)をリフォームしたとのこと。

ただ、この町屋は人が住むための家ではなく、人に見せるための家というコンセプトのようだ。


「盛岡まち並み塾」がどういうものなのかわからないのだけれども、地域の人たちはこういうイベントをどう見ているのだろうかと思う。

町内会との関係はどうなのか尋ねてみたら、はぐらかされたような気がしたから。


その土地のよさを、地元しか知らない人はわからないのだと言う。

よいところを見つけるのは、よそから来た人なのだとも。

確かにそういうところはあると私も思う。

その土地しか知らない人はその土地の特徴を言語化するのは難しいのだと思う。

わざわざ言語化しなくても、それが普通の日々の暮らしなのだから。

ある意味、退屈なのかもしれないし、変化に乏しいのかもしれないし。


その人たちの当たり前の暮らしが、よそから来た人には新鮮に映るのだろう。

今日は外国人のグループが見学していたりした。


鉈屋町は私が幼い頃から見慣れてきた風景なのだけれども、今、こうして街並み保存とか地域づくりとか言われると、何となく違和感を感じるのは何故だろう?


欠けた月は、私の心のよう。

いつかまた満ちる時を、静かに待つ。