昨日までの不安定な蒸し暑さが嘘のような、夏空。

薄い夏の雲、照りつける太陽にひまわりは姿勢を正す。

北国の短い夏が凝縮されたかのような1日。

ふと見ると、もうすすきの穂が出ている。

こうして夏は走り去るのだなあ。

山際が真っ赤に染まった夕暮れ時は、まるで秋の入り口で立ち止まったようだった。


今日は、盛岡花火の祭典。

さんさ踊り、花火、舟っこ流しとそれはもう駆け足の夏。

都南大橋下流で行う花火大会は、やはり都南大橋の上から眺めるのがいいんだろうなと思う。

私は周りに人がいると落ち着いて花火を楽しめないので、あまり人がいないようなところに行ってみた。

久しぶりにじっくりと花火を楽しめたと思う。

咲く花のように見える花火がきれいだった。

さんさ踊り最終日。

いつになく賑わう街をぶらぶらと歩いてみる。

老若男女、普段はどこにいるのかと思うほど、人出が多い。

菜園付近は悲しいほど閑散として見えた。

みんな、さんさを見に中央通へ繰り出すから。

人の流れとしては、菜園よりは肴町方面へ流れているように思う。


今日は明日の巡業のために盛岡を訪れている力士たちのパレードからスタート。

本来ならば、朝青龍も参加するはずだったのだろうけれども・・。

次に知事と岩手県観光PR集団が続いた。

平泉とか北東北デスティネーションキャンペーンとか、観光地としての岩手の宣伝に力を入れているのだろう。

県では「詩情豊かな岩手路」を長く使ってきたので、新しい観光キャッチフレーズを制定したとのことだけれども、

「ニッポンの、奥座敷。」というフレーズには、「詩情豊かな岩手路」が似合う気がする。


台風がかすめて雨模様だった1日。

むせ返るような蒸し暑さから逃れてホッとしたのもつかの間。

来週は岩手の短い夏はクライマックスに向かう。

何となくだけれども、私くらいの年頃の人たちが、一番、夏のイベントに遠いような気がする。

梅雨が明けて、岩手の短い夏が始まった。

さんさの太鼓の音とともに。

大慈寺の境内からせみしぐれが聞こえる。

陽射しが照りつける午後に聞けば、暑さの度合いが増していくのだけれども、日が傾いて空が夕焼け色に染まる頃に聞こえると、なぜだか夏の終わりのような気がする。

岩手の夏は短い分、濃密で、それははかない恋よりあっけない。


橙色のノウゼンカズラがこぼれるように咲き誇る。

アスファルトの上に散った花びらは、桜の花が散ったときより何だか美しいと思う。

ノウゼンカズラの橙色は、夏を呼ぶ色。

北国の青い空にそれはそれはよく映えて。


さんさの太鼓の音が、茜色の空に響く。

昼間の陽射しと青空と白い雲は、もう夏だ。

紫陽花の花が色褪せてきた頃から、夏の気配がしていた。

紫陽花はきっと、たっぷりと水がなければ、生き生きと咲けないのだなと思った。


木陰を選んで陽射しを避けながら歩く。

今年の夏は、気温の割に湿度が低いようだから、何とか息がつける。

まだ梅雨明けという発表はないのだけれども、からだの感覚は、夏。


夏のイベントや祭りを思うと、わくわくしてくる今年の夏だ。

台風が行き過ぎて、青空と陽射しが戻ってきた。

それでもさわやかだ。

新潟はまた大きな地震があって、大変な状況の様子がテレビに映されている。


今日、今年初めての蝉の鳴き声を聞いた。

夏を感じたのだろうか。

このまま、梅雨も明けていくのだろうか。






てくり第5号が発売された。
特集が「盛岡ノート」だったので、書店で手にとって見た。
「盛岡ノート」
私が宮澤賢治よりも石川啄木よりも、もっと盛岡らしいと感じるモノを文字で表現していると思うのが立原道造なのだ。
それは私だけの感覚であるから、たとえば、ほかにも盛岡らしいものがあるよと示されても、やっぱり賢治や啄木でなくちゃと言われても。
私にとっての盛岡とは、立原道造がしっくりくるのだ。
彼は盛岡には1か月ほどしか滞在しなかったのに、「盛岡ノート」には、盛岡のコアな部分(これも私の感覚)が表れている気がする。
盛岡の人でないのに、盛岡をよくわかっている。
否、盛岡の人でないからこそ、盛岡の盛岡らしいポイントがよくわかるのではないだろうか。
てくりの「盛岡ノート」の記事を書いた人も、盛岡の人ではない。
木村さんという名前に覚えがあると思ったが、たぶん今朝か昨日のテレビに出ていた気がする。
なんだったかは覚えていないのだけれども。


立原道造が5月の盛岡を訪れる機会がなかったのが、すごく残念だ。

立原道造が見た、盛岡の5月を味わってみたかった。

ページをめくっていたら、また目を引くページにたどり着いた。
「イワテライフ日記」の記事だった。
「盛岡ノート」の次に「イワテライフ日記」とは、あまりにも出来過ぎているのではないか。
作者であるまるとさんの取材が出来たのは、ちょっとすごいかもしれないと思った。
この方も盛岡の人ではない。
だからこそ、見えているものがあるような気がするのだ。

今まで私はてくりを購入したことはなかったのだけれども、勢いあまっててくりを手に取ってレジに進んだのだった(笑)。

メリハリのある梅雨というのか。

朝からしっかりと雨。

うなだれていた紫陽花が深呼吸しているようだ。


夏至から何日も経ったのに、夜の7時半の空が不思議だった。

北の空の雲が割れて、明るい空がのぞいていた。

どうしたんだろうか。


sky2


夏至の翌日の日の入りの空は、美しかった。

しばらく、空を見上げて思いをはせた。

盛岡の空は、青くて広い。

もう私は、空を見上げて遠い地を思わなくてもよいのだ。




夏至の翌々日の空。

筆で思いのままに描いたよう。

広い空は、心を開放し、思いを受け止めてくれる。


梅雨の晴れ間。

なんだかとても心地よい。

紫陽花の花も遠慮がちだ。




6月に入って一時期、夏のような蒸し暑さに参ったけれども、今日は気温も湿度も空も空気も心地よくて、1日中しあわせな気持ちで過ごした。

ニセアカシアの花も終わり、あちこちの家の庭先にはばらの花が次々に咲いている。

季節ごとの花の色と花の香りの移り変わりは、本当にうまくできているのだなあと、自然の営みに感心する。

中津川の忘れな草も、もう少し自己主張したらいいのにと思う。

もったいない。

忘れられたくないのなら、陰に隠れてしまわないことだ。


街に暮らしながら、自然に癒されることは、とてもぜいたくなことだと思う。

川原橋が木製の橋だった時代は、自然に癒してもらうという発想自体すらなかっただろう。

今年は盛岡の街の季節の流れ方が、とてもよく目に見えてうれしい。


桜の季節が過ぎて、緑の色が濃くなり、ようやくこたつをしまう頃。

いわての一番澄んだ空気がこの季節にはある。

空の青さがまぶしくて、川のせせらぐ音が耳に心地よくて、遠くの山の緑の濃淡さえも見分けることができて、輝く草原っていう表現がとてもなじむ。

梅雨入り前のほんのひととき、こころもからだも思い切りゆだねることができる季節。

ドライブをするなら、今が一番気持ちいいかも。

こころを開放する練習をするなら、今。