盛岡の街がよく映える季節はいつだろうかとふと思う。

四季折々の味わいはあるけれども、私は輝く空と光る水と深い緑に彩られる季節が気に入っている。

もちろん、秋行く街も趣がある。

でも11月の声を聞くと、冬の気配を感じるのは、北国のせいなのだろう。

いちょうの葉もまだすっかり色づいていないのに、舗道に張り付いた落ち葉を見ると、秋の終わりを感じてしまう。

秋はその彩りを目立たせないまま、いつもひっそりと姿を消していくような気がする。


月を見上げるゆとりのない誰かも、歩くたびに踏みしめる落ち葉の感触に季節の移ろいは感じているのだろうな。



十三夜の月は、雲に隠れつつ再び姿を現しつつ、済んだ冷たさを放って私を照らしてくれる。

私の感性は、あの人のそれとは重ならないものかもしれないけれども、私が心を動かされたことをただ伝えたいなと。

ただそれだけで。


街の木々も色づいてきて、歩道を枯葉がからからと音を立てて私を追い越していく。

そろそろ手袋をはめたいかもしれない。

陽射しは暖かく、吹く風は冷たく。

岩手山の山頂が遠くからもわかるほどに白くなった。


コーヒーが冷めるのが速くなって、日が暮れるのも早くなって、一人でいると寂しいと感じる時間が長くなる。

立原道造が1ヶ月滞在した盛岡を離れた頃は、こんな季節だったのだろうか。



姫神コンサートに行った。

盛岡でのライブは2年ぶりとのこと。

私は二代目中心の姫神のライブは初めてだ。

山口太鼓や津軽三味線とのコラボに加えて、ヴァイオリンのコラボまで。

うまくアレンジするものだなと思って聴いた。


新しいアルバムの曲中心で、私が知っている古い曲は少なかったけれども、姫神の曲は神にも仏にもつながっているように感じる。


毛越寺でも奉納演奏をし、今月は伊勢神宮で神嘗祭の奉祝演奏会もするとのこと。

岩手の風と空が縄文の息吹きを伊勢まで伝えるのだ。



松任谷由実の「四季」をテーマにしたベストアルバム第1弾「SEASONS COLOURS -春夏撰曲集-」を聴いた。

代表的なヒット曲から一般的にはあまり知られていないアルバム収録曲まで、DISC1(春編)とDISC2(夏編)に分けて最新デジタルリマスタリングで収録されているとのこと。

もちろん「緑の町に舞い降りて」も収録されている。


個人的には、通常のベストアルバムよりお気に入りだと思う。

10月には「SEASONS COLOURS -秋冬撰曲集-」が発売予定なので、これも購入する予定。


思い入れのある曲が結構入っているのが気に入っている。

私がユーミンを聴くようになったのは、昔付き合っていた人がユーミンの曲を録音したカセットテープを貸してくれたことがきっかけだった。

彼とは盛岡の街を歩き、岩手のあちこちへ電車や車で出かけた。


彼と別れた後「カンナ8号線」を聴いて泣いた。

それでも現実をありのまま受け入れることは、あれから長い長い年月が経っても、私にはまだ難しいことらしい。


今年の秋は本格的に深まり出した。

今日の空も悲しいくらいに青かった。

10月を迎えたら、やっと秋を肌で感じることができるようになった。

岩手山の山肌の色も秋色。

そのうち、愛宕山の方も紅葉して秋の味わいはいっそう深まるだろう。

季節が移り変わるのと、気持ちが揺れ動くのは、なんだかリンクしているような気がする。

秋だから余計に切なさが募るのだと思う。

私はいつまでひとりでいるのだろう。

ひとりを選んだのは私自身なのだけれども、今は、ひとりが切ないと思う。

私の気持ちは舞い散る落ち葉に埋もれて見えなくなっても、消えることはないのだから。


いっそ壊れて泣いてしまいたい。

彼岸を過ぎて、秋色。

ピンクと白のコスモスは、水色の空と真っ白な雲を背にして風に揺らぐ姿がいい。

長い長い夏の終わりは、告げられずに閉ざされた想いの行き場を受け止めてくれるだろうか。


月も満ちて、鮮やかな黄色に。

昨日の月は青白かったのに。

あなたもどこかで同じ月を見上げていますように。


わたしはここにいるから。



車を運転していたら、ラジオから「そして僕は途方に暮れる」がフルコーラスで流れた。

思わずボリュームを上げた。

この曲に思い入れがあったのかどうかすら、あやふやになってしまったのだけれども、耳が反応するのだ。

きっと私が80歳を過ぎたとしても、この曲を聴くと何かを感じるのかもしれないと思った。


やさしくなれずに 離れられずに 
思いが残る


今の私なら、こういう人とは別れて正解なんだと思う。




今日の朝日新聞のbeに島崎藤村のことが載っていた。

藤村の片思いだった女性が一関に住んでいたことがあったそうだ。

それで藤村も一関を訪れたらしい。


また一人、岩手にゆかりのある作家を知った。

またいつか一関を訪ねるときは、藤村の足跡もたどれたらと思う。



朝の岩手山は、秋色だった。

すそ野の雲もいい感じに広がって。

写真などであまり目にすることの少ないコントラスト。

赤茶色と緑色の。

青い姿のスタンダードな岩手山は美しいけれど、秋色の岩手山も趣がある。

というか、物思いにふけるきっかけを与えてくれるようなそんな感じ。


まだ8月だけれども、お店の果物の売り場には、ぶどやらなしやら秋の果物が目立ってきて、チョコレートの売り場も秋の新商品が並ぶ。

季節感のある暮らしは単調な生活にメリハリを与えてくれる。

岩手は吸い込む空気にも夏の名残はもう感じられなくなった。


午後の空は、岩山の向こうに真っ白い夏を惜しむようなしっかりとした雲が夏のかけらを思い出させてくれるように浮かんでいた。

さよなら、夏。


今日は処暑だとのこと。

ほんとうに暦どおりの涼しい1日だった。

そう、秋の虫の声が草むらからしましたね。

空が心なしか高くなった気がして、雲はふんわりとふくらんで浮かんでいた。

百日紅の花の色は、未だに色褪せていないのだけれども、空気は秋のにおいがしている。

朝が来るのが遅くなり、夕暮れ時は足早になってきた。

8月。

メリハリのある気候だったからか、久しぶりに気分のよい夏を過ごすことができた気がする。

連日の真夏日。

あろうことか、昨日は盛岡で猛暑日だった。

盛岡の夏は、真夏日を楽しめる夏だったはずなのに。

太陽に焼かれそうな午後は、そう、今日は焼かれてもいいとすら思った。

背伸びしたひまわりの首を折られたような哀しみにむせぶのならば、折られた姿が見えなくなるように焼かれたい。



ノウゼンカズラが鮮やかに咲き続ける根元にピンク色のコスモスが夏の風に揺れている。

そう、こんなに夏の陽射しが振り注ぐのに、秋の気配は暑いうちからやってくるのだなあ。