盛岡駅西口。

駅を背にしてみれば、新しい建物がたくさん出来てきて、ここが盛南地区への入り口のように見える。


ある人が言った。


皆さんは、突然、更地になった場所を見て、前に何があったか覚えていますか?

覚えていないという経験は何度かしたことがあると思います。

それだけ関心がないということなのです。見えていないのです。と。


見えるのに見えていないことは、たくさんあるのだと思う。

なくなって気がつくことは多い。

あるときは大事に思っていないものが、なくなると惜しい気がするなんて、ワガママかなと思う。


盛岡駅西口。

私には縁のないところだと思っていた。

昔は国鉄の工場とかあったんだと思うけれど。


東山堂のブックカバーは、大正14年発行の盛岡市の地図が印刷されている。

私はこの地図を眺めるのが好きだ。

昔あったもの、昔の町の名前。

そんなものから、昔の盛岡の暮らしを想像するのが楽しい。

私は道路を通る時、地図を見るより、ランドマークを見る。

ランドマークさえ見えていれば、回り道になっても目的地に辿り着けるから。

だから、ランドマークが見えると安心する。

カーナビの案内よりもずっと。


マンションが次から次へと建設されて、街から見える空がどんどん少なくなっていく。

次から次へ現れるマンションは、私のランドマークにはならない。

どうしても。

こんなに狭い街に、こんなにマンションがあると、かえって道に迷いそうだ。

この街の行く先もそうかもしれない。



遠野へ行った。

緑の濃淡が美しい峠を久しぶりに越えた。

野生の藤の花の淡い紫色も緑によく映える。


遠野の里は、人も車も少なくて、土曜日の観光客も少ない気がした。

よく見れば、遠野駅前は自転車店が多い気がする。

かと言って、遠野の町を自転車で走る人の姿は少ないと思う。



川辺に石垣があって、木造の建物がある風景が好きだ。

全国どこにでもありそうな風景だけれども、紛れもなくここは遠野の町の中。

イメージの遠野とは少し違って見える気がする。


道の駅「遠野風の丘」で、多田克彦農場の牛乳で作ったジェラートアイスを食べた。

このジェラートは、ここでしか食べられないかもしれない。

「ここでなければ食べられないもの」は、大切だと思う。

それから、ジンギスカン串。

これは期間限定のようだ。

今日はお腹に余裕がなくて食べられなかったが、次に行く機会には、ぜひ食べてみようと思う。


遠野の空気は盛岡の空気より、澄んで冷たかった。


盛岡への帰り道、小峠トンネルを越えると、かわいらしい宮守の山里が眼下に広がる。

日本昔ばなしのような世界だ。

日本の原風景なのだろうか。

それでも、そこは私の原風景ではなくて、日本昔ばなしのような原風景。



6月の始まりが、こんなに気分いいなんて!

まとわりつくような息苦しさと肌寒さの梅雨が来る前の山は、何て緑が美しいんだろう。

先日までのもやがかかったような憂うつさを一掃して、空を磨いたように日差しは降り注ぎ、いつもは青色に見える遠くの山々は、緑の彩りが目に鮮やかだ。

見上げる空も青く澄んで、いつも同じ表情の青ではないことがわかる。


昨日は、灰色の雲のすき間からところどころに水色の空が顔を覗かせていた。

希望は逃げて行きはしない。

毎日毎日が大切で、毎日毎日の生活をちゃんとすることが、希望の見える生活。



春を彩っていた花たちも終わり、雨が降るごとに緑が鮮やかになる。

梅雨入り前の今の時期は、春でもなく中途半端な季節。

雨上がりの朝の風は冷たくて、まだら模様のように湿ったぬるい空気が混ざっている。


ここにいてもいいのか。

どこにいればいいのか。

私に見えていないものは、いつか見えるときが来るのか。


子どもの頃は、人の心が読めたらいいなと思っていた。

今は、自分の心をごまかさないでいることが大事だと思う。

いつ雨が降るのだろうかと待っていた。

降るなら早く降って、早く止んでほしい。

明日は雨上がりの緑色の空気から始めたいと思ったから。


最近、窓のそばにテーブルと椅子を移動させて、うちカフェ気分を味わっている。

外の景色を眺めながら、ゆっくりとコーヒーを飲む時間が気に入っている。

こんな時間と空間を作れるのがうれしい。

日常の中にある、いつもと違う場所。

安上がりだけれど、私が気に入ればそれでいい。


盛岡にあさ開酒造の「カフェAZ’」という店があるそうだ。

ステラモンテのところなのだろうか。

いまだにステラモンテには行ったことがないのだけれど、カフェなら1人でも行けるかな。

築100年以上の古蔵で、大慈清水で淹れた珈琲を楽しめるらしい。

いつかきっと訪れたい。



こんなに朝から気持ちがよい日は、ずっと続けばいいのにと願う。

明るく澄んだ5月の空は、くすぶる心を完全に燃やしてくれる。

盛岡の街の空は高く見える。

背の高い栃の木の並木のせいか。


束の間の快適な気候。

ただぼんやりと過ごしているのでは惜しくてならないのだけれど。

ぼんやりと過ごす時間が、本当は贅沢な時間なのだろうと私は思う。


どこかへ行きたいと思うのもこんな空の高い日。

長いこと見ていない海だとか。

お気に入りだった木漏れ日の注ぐベンチだとか。


この街から離れることが少なくなった分、遠くの街に思いを馳せてみる。


激しく降った雨も上がり、霧が晴れて、5月の日差しと蒸し暑さの端っこが降り注ぐ。

緑の葉の茂る木陰が心地よいと感じ始めるのは、きっと今頃の季節からだろう。

岩手山の雪も筆で辿ったように細くなっていく。

緑は雨が降るごとにいっそう輝く。


庭先に猫がいた。

二匹、寝そべるように、くつろぐように、手足を伸ばして、見つめ合っているように見えた。

何か通じているのだろうか。


猫を見つけて、近づいたら、くるりと背を向けられてしまうのは、警戒されているんだなと。

怖いんだなと。

そう思う。


怖くないんだよと伝える方法はあるだろうか。



緊張していたものがふとした瞬間に、力尽きて、中にいっぱいいっぱい膨らんでいたものが、一気に弾ける時はあるだろう。

いっぱいいっぱい努力してきて、これ以上どうしようもなくなった時。

外に向って弾けるか、中に向ってしぼむか。


ああ、そういうことだったか。


力のかけ具合のバランスが難しい。

人間が相手の場合は尚更。


私に見えているモノと、あなたに見えているモノは違うのだし。

仮に同じものだったとしても、私の見え方とあなたの見え方は、違っているかもしれない。

もしかしたら、私はメガネをかけた方がよいのかもしれないし、あなたはメガネの度を弱くしたほうがよいのかもしれない。


そういうこと。


サンビルの産直コーナーで、よもぎを売っていた。

1パック100円。

どこで摘んだのか、栽培しているのか。

JA経由で出荷しているのだろうから、栽培しているのかもしれない。

よもぎは、道端の草むらに生えているものと思っていたのだけれども、産直で買えるんだなと思うと、何だか不思議。


しどけにたらの芽。

春の味覚が産直にはいっぱい。

スーパーの産直コーナーとはやはり違う。