個人的な見解の話

 

パニックの時なんかは

「ストレートな対応をするのではなく まずは気をそらすと良い」

と言います。

 

 

・テレビで好きな番組が始まった

・スマホから好きな音楽が流れた

・お菓子が貰えた

・好きな話をする

 

等が当てはまるのでしょうか。

 

 

ただ、個人的な見解としましては、

そういった気をそらす対応をされますと

「俺の話を聞く気がないんだな」

と感じてしまいます。

 

 

 

余計にイライラが募ります。

癇癪が激しくなります。

 

 

 

というかすでに、

周りの外的要因から気がそれているからこそ、

癇癪と言った過集中状態が起こるのではないかと感じています。

 

 

 

自分が癇癪を起している時、イライラが激しい時。

「気」がどこにあるかわかりません。

 

 

でも、落ち着くときって意外と一瞬だったりします。

 

 

なんていうか「気が戻ってきた」感じがするのです。

 

 

それに気が付くきっかけになったのは、うちのわんこの話ですが。

 

 

私が癇癪を起した時、必ず一番に飛んできて

私以上に騒ぎ、私が押しのけても何度も何度も戻ってきて、

なついている他の人が近づこうとすると遠ざけ、

自分以外は傍にいさせないといった行動を取ります。

 

 

戻ってくるんですよ、何があっても。

 

 

そして初めて私は

「自分が癇癪を起していた事実」

に気が付くことが出来たのです。

 

 

それまではどんな癇癪を何度起こしても記憶がないんですよね。

次の日には何事もなかったかのようにケロッとしていると言われるのですが。

 

 

そもそもそんなことがあった事実を知らないんですよ、マジで。

 

 

嘘だと思うかもしれませんけど。

本当に記憶に残ってないんですよ。

 

 

たぶん、今までは

「自身が自身で気をそらして忘れたことにしていたのではないか」

と感じています。

 

 

このように、癇癪から気をそらしているだけでは、

その場しのぎは出来ても

最終的に癇癪は収まらないのではないかと感じています。

 

 

わんこだけでなく、

私の支援者の行動も私の癇癪から気をそらすのではなく、

私が癇癪を起していることに私自身が向かえるようにするためのものでした。

 

 

気をそらしていた時は

「どうせ俺なんて」

と思っていました。

 

 

でも、気を戻し向かい合うようにしてからは

「自分と周りのためにも」

と、変わりました。

 

 

 

気をそらすのではなく、気を戻して向いあうことで、

癇癪に至る過程で止まることが出来たこともあり、

癇癪に陥っても短い時間で抜け出すことが出来たこともあり。

 

そういった変化がありました。

 

ただ、まだ完全に癇癪を起こさないには至れていません。

 

 

共存は出来るけれど共感は難しい

 

 

私の持論ですが、そういった共存を続けていくためには、

いい共感、いい共有だけではなく、悪い共感、悪い共有とも

共存し、向かい合っていかなくてはならないのではないでしょうか。

 

 

気をそらすのではなく

気を戻すことが必要なのではないか

 

 

と、感じましたとさ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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