こんにちは、こんばんは。
浦和の奇跡、アイコです。
嘘です。
昨日上げた芥川龍之介の蜜柑というブログで、
その名の通り、芥川龍之介の「蜜柑」という作品を
載せてみたのですが…
そこは一応元文學生、
なんだか自分のふんわりとした、
抽象的な解釈だけでは物足りなさを感じ…
思わず超超久々にサイニーで検索をかけてみました笑
現役の学生さんだったらいつも
お馴染みなじみでしょうが、
普通のOLやサラリーマンはどうしても縁遠くなってきます。
「蜜柑」はかなり先行研究が多い方なのですが、
何しろ専門的な本なので案の定、
近場で全然手に入らないwww
ということで、
大正義、機関リポジトリでPC上で、
すぐに確認できるものだけ読みました笑
さすがに国会図書館まで行って、
熱心に調べる労力は今の私にはない……
行こうと思えば職場は六本木だし、
行けなくないんですけどね|д゚)
もう学生じゃないからね(´・ω・`)
いくつかあって読んでみたのですが、
面白かった一つの先行文献だけ、
少しご紹介しつつ、私の感想を載せていきます。
ちなみに、私が今回ご紹介するのは、
下記の論文です。
「なぜ蜜柑は「空から降って来た」のか : 芥川龍之介『蜜柑』を読む」
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田島, 俊郎
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こちらは「言語文化研究 21」、
P 77-92, 2013-12に刊行されたものです。
タイトル通り、「なぜ蜜柑は空から降ってきたのか」、
という問題提起から始まり、
フランス人学生の意見も交えて述べています。
面白いのは、79Pの後ろから3行目、
「、「 疲 労 と 倦 怠 」 に 覆 わ れ た 「 私 」 の 心 境 が 説 明 も な く い き な り 前 面 に 出 て く る の は 小 説 と し て お か し い」
というフランス人学生の意見です。
日本人からすれば、何のことのない表現かもしれません。
しかし、主語が必ず文頭に来る英語や、
その他の欧米の言語圏の方からするとかなり、
不可解なのかもしれません。
実際、日本語の小説を英訳したものを見てみると、
実にわかりやすいでしょう。
日本語ではわざわざ「彼」や「彼女」、
という単語を使わなくても文脈や話し方で誰が今喋っているのか、
我々なら理解できます。
しかし、英語や仏語はそうはいきません。
「He」や「She」が必ず付きます。
また、かつて、日本語概説の授業の際にも
様々な先生が言及されていましたが、
日本語ほど、男女で性差のある言語もなかなかない、
とのことでした。
これについては様々な先行研究で言及されていますし、
ネットでも様々な個人的な意見があります。
(あくまでネット上なので参考程度にどうぞ(笑))
上記のサイトの例で言えば、
「あら、雨が降っているわ」といえば女性であるとすぐわかります。
それが、日本語圏ではない人々からすると、
なかなか、理解ができないんですって(・ ・;)
英語だと、老若男女関係なく同じ話し方で話しますもんね。
そう考えると日本語ってやっぱり難しいですね(笑)
その分、研究の遣り甲斐はあるんでしょうけど。
何はともあれ私はどうやらこのフランス人学生と
同じ感性だったようです。
なぜ「私」は疲労と倦怠を感じていたのか。
やっぱり気になるよねw
まあ、そこはここではあまり触れずに行きましょう。
田島氏は別にそこは問題ではないと指摘していますし、
私も正直、其処は問題ではないと思うのです。
今回私がフォーカスしたいのは本論文の後半です。
同じく芥川龍之介の「蜘蛛の糸」と、
「蜜柑」を比較しているところです。
田島氏はここで「蜘蛛の糸」の「犍陀多」と、
「蜜柑」の「私」は同じだと指摘しています。
「下 品 で 不 潔 な た め に 好 ま な か っ た 小 娘 が 蜜 柑 を 投 げ る 姿 を 見 る だ け で 「 素 朴 な 人 間 性 に 対 す る 共 感 」( 中 村 真 一 郎 ) を 感 じ た と い う で あ れ ば 、 芥 川 の 人 間 性 に 対 す る 認 識 の 浅 薄 さ に 驚 く ほ か な い 。 犍 陀 多 は 「 私 」 か つ 弟 た ち で あ り 、 蜘 蛛 の 糸 は 蜜 柑 で あ っ た 。 と す る と 、〈 蜘 蛛 の 糸 を 垂 ら す 御 釈 迦 様 = 蜜 柑 を 投 げ る 小 娘 〉 の 等 式 も 成 り 立 つ に 違 い な い 。 蜘 蛛 の 糸 を 垂 ら す 御 釈 迦 様 と 同 じ 役 割 を 担 っ て い る と す る と 、 小 娘 が た だ 者 で あ る は ず は な い 。」
上記の通り、まあまあ辛辣なことを言ってはいますが(笑)、
「蜘蛛の糸」の「お釈迦様」と、
「蜜柑」の「小娘」はイコールというようなことも、
同時に言っているのです。
「蜘蛛の糸」ではお釈迦様が文字通り、
蜘蛛の銀色の糸を垂らしてみますよね。
犍陀多からすればそれが思わぬ幸運だったわけです。
「のち に 芥 川 は 『 西 方 の 人 』 の 中 で 、「 我 々 は あ ら ゆ る 女 人 の 中 に 多 少 の マ リ ア を 感 じ る で あ ろ う 。( 中 略 ) 我 々 は 炉 に 燃 え る 火 や 畠 の 野 菜 や 素 焼 き の 瓶 や 巌 畳 に 出 来 た 腰 掛 け の 中 に も 多 少 の マ リ ア を 感 じ る 」1 7 と 言 う 。 腰 掛 け の 中 に も マ リ ア を 感 じ ら れ る の に 、 皸 だ ら け の 頬 を 萌 黄 色 の 毛 糸 の 襟 巻 に 埋 め な が ら 、 大 き な 風 呂 敷 包 み を 抱 え た 手 に 三 等 切 符 を 握 っ た 小 娘 に も マ リ ア を 感 じ ら れ な い は ず が な い 。 」
ちょっと長い引用ですが…
これはちょっと意外でした。
芥川龍之介は知識としての宗教はあっても、
それを信じるような人ではないだろうと、
そう思っていましたので。
本論文後述でも、
芥川龍之介は信仰はしていなかったとの記述があるので、
やはりあくまでイメージ、或いは知識、
歴史としての宗教なのでしょう。
「マリアで象徴されるものは「唯の女人」ではなく、聖霊が訪 れる存在である。芥川はキリシタンを描きながらもキリス ト教の信仰を持っていたようには見えない。しかし奇蹟的 な救済のようなものの訪れは待望していたように思える。 「私」は、蜜柑を投げる小娘に、マリアつまり聖霊の訪れ を感じたのである。小娘にマリアを感じた「私」は、その 発見を「得体の知れない朗な心もち」と表現する。アメリ カ人の学生のことばを借りれば、「私」には恩寵が訪れたの である。」
「蜜柑」の主人公は小娘に直接何かを施されたわけではありませんが、
小娘の行動を目にすることによって、
言いようのない朗らかな心持を感じました。
『読了後、不思議と私たち読者にも、
主人公の「私」が感じたであろう、
朗らかな、少しだけ救われるような感覚がしてくるのです。』
上記は前回のブログで私が発言したものです。
何にも考えず、
ただ本当に感じたことだけを書いたのですが、
あながちこの感覚は間違っていなかったのだな、
とも今更ながら思いました。
(もちろんただの偶然かもしれないけれど。)
確かに、慈悲の心を持つ聖母、
マリアは人間をいつくしみ、
そして救済をするイメージと重なるなあと、
ぼんやり妙にしっくりきました。
でも、こう思うのも、おそらく私が一応、
キリスト教の影響を受けているからなのかもしれないとも思って、
新たな発見でもありましたが。
(もちろん、しっくりこない人もいると思いますよ。
そういう感覚を持つ人の意見もぜひ聞いてみたいです(笑))
「ところで、恩寵に理由はない。因果応報という人間界の 論理など御釈迦様には必要ない。恩寵を授かった人間が、 恩寵の理由を勝手にでっち上げているだけである。われわ れは物事をたいてい「欲するままに、いろいろ実相を塗り 変えて」見ている。恩寵と思うかどうかは受け手次第で ある。与える側は、与えたものが恩寵と解釈されるかどう かには無関心である。御釈迦様が悲しそうな顔をしただけ だったように、〈小娘=マリア〉も「私」に朗な心もちを与 えたことに気づくはずはなく、大きな風呂敷包みを抱えた 手に、しっかりと三等切符を握っている。」
ここはちょっとうーんという感じと、
なるほどな、という感じですね。
確かに小娘は別に主人公の私になんか目もくれないし、
(くれていたら変な行動はできないはず)
お釈迦様ももっと本気で助けようと思ったら、
蜘蛛の糸なんかじゃない、
の太い屈強な糸を垂らしただろうし(笑)
結局は受け取り方次第なんだなあ。
でも多くの文献がこの「蜜柑」という作品を、
「人間的」だとか、かなりの高評価をしているということは、
少なからず「蜜柑」では芥川龍之介は、
小娘の行動を感動的に見えるように描くことに成功している、
ということですよね。
これも受け取り方次第なんでしょうけど、
やはり多くの人が感動する作品には違いないです。
「蜘蛛の糸」では、感動というよりも、
教訓というか、残念だな、犍陀多は。
という気持ちのほうが大きく感じますしね。
同じ役割の登場人物を登場させているというのに、
作品によって印象が大変異なるというのは、
稚拙な言葉で申し訳ないですが、
とても面白いなあと思います。
「あるいは、「降って来た」のようなあからさまな手がかり にもかかわらず多くの読み手たちに読み違えられてきたと すると、芥川の技巧のほうにこそ瑕疵があったと言うべき なのだろうか」
最後になりますが、
この「蜜柑」の初出は雑誌『新潮』の大正8年5月号でした。
「「私の出遭つた事」の総題の下に、「一、蜜柑」「二、沼地」として二作が併載されているが、
両作品に直接的な関連は見られない。」
(「芥川龍之介の『蜜柑』」川端俊英 国語教育研究 (26上), 259-266, 1980-11-04より)
上記のとおり、「私の出遭つた事」という題のせいか、
これは随筆であるというような、
芥川が実際に体験したことのように論じている先行文献も少なくないようです。
(今回数本しか論文読んでないので、
詳細は分からないのですが……)
しかし、田島氏は市の論文の中で、
これは芥川の随筆などではないとはっきりと述べています。
私の意見でも氏と同様、
芥川龍之介の実体験ではないだろうと思います。
これはあくまで芥川龍之介の「小説」だと思います。
一見感動的な随筆を装っておいて、
実はかなりの技巧を凝らし、綿密に計算されて、
神経をすり減らしながら、一言一句無駄のない、
創られた小説である、ということです。
ざっくり言っちゃえば、
田島氏は小説でなければ蜜柑は「空から降ってきた」なんて表現されないし、
主人公の視点もあっちいったりこっちいったり、
曖昧にならないだろう、と。
小説の中の「私」は必ずしも「作者」ではない。
文学生だった頃、
よくゼミの教授に言われた言葉を思い出します。
しばしば日本人は小説の中の主人公を、
作者とイコールで繋ぎたがる傾向があるのだと。
私もそれはどのような作品に関しても言えると思います。
あまりに安直というか、
一読しただけでそう決めつけるのは尚早なんじゃないかと。
もちろん、中には主人公を自分として書かれる話も多く存在します。
ですが誤解したくないのは、
作者の実体験に基づく話だとしても、
必ずしも「作者」=「主人公」ではないと言うことです。
そうでなければ、
作品自体の解釈を誤る可能性がありますし、
場合によっては作者の意図が伝わらず、
誤読をしてしまうこともあるからだと。
教授は多分そんなことを伝えたかったのでしょう。
況してや、一言一句神経を使って無駄の無い、
完璧な文章を紡いでいた芥川龍之介が相手であるならば、
尚のこと。
芥川龍之介というのは、
現代の私たちよりもはるかに文学に対してストイックな世代です。
日本語、和歌や古くから伝わる古典はもちろん、
中国の古典、漢籍や漢詩ももちろん学んでいました。
古今東西、あらゆる国で詩は読まれますが、
世界で一番作成するのも解釈するのも難解といわれる漢詩を、
スラスラと読めて、書けて、諳んじることはもちろん、
自分で作詞ができるという日本人の「最後の漢詩世代」というのが、
実は芥川龍之介の世代で、あったといいます。
(余談ですが、読んで書けて作詞ができる専門の教授は、
現代では寝たきりを含めて今日本に15人しかいないのだと、
日本語概説の先生が力説していましたwwww)
まさに日本文学、語学のエキスパートである、
彼の作品はとてもじゃありませんが、
他の作家以上に読み方を注意しなければなら無いのでしょう。
神経をすり減らしてくるしくてくるしくて、
それでも書かずにはいられなかった芥川龍之介の小説だからこそ、
読書もそれ以上に些細な言葉にも
神経を研ぎ澄まして読まなければならないんだろうと、
そう思うんですよね〜
「蜜柑」はそんな頭でっかちな作者が書いた、
氏のいう処の技巧的な小説であると、
そういうことなんだなと、改めて思います。
「空から降ってきた」という何も考えなければ通り過ぎてしまうこの一文にさえ、
これだけの考察をする価値があるのだと思うと、
ますます私は芥川龍之介という作家が苦手になってきました。
笑
天才の書く小説は、
常人からすればただの感動話でも、
それ相応の考察力のある人間が読めばかなり仕掛けのある作品なんですね。
常人以下の私は今回は2、3つほどしか文献を読んでいませんが(笑)
かつ、論文ではなく思ったことをつらつら書いているだけなので、
適当なことしか言ってないので、
鵜吞みにしないでくださいねw
ただのしがない暇人の小話ですので(笑)
それでも気になる、興味を持った、
という方はぜひサイニーで検索して見てください。
皆で机上の空論をいじくり回して作品を違う視点から眺めて楽しんで欲しいです(´-`)