一昨日。
模試の結果について冷静にそして冷たく。
感情を一切出さずに生徒の前で話をしました。
冷静沈着に。
そこで確認しました。
「私は本気になれば良いのか?」と。
本気を出して欲しいと思っているのかと?
本気を出すのは力が要ります。
体力もそうですし、胆力もそう。
誰も見捨てないという事は、我慢我慢の毎日です。
生徒だって負担は大きい。
見捨てられないという事は、見つけられてしまうという事。
成績の低い生徒は兎に角、自分の学力に無頓着です。
長年積み重なってしまった自分への期待の無さ。
周囲の大人も保護者様以外は彼らをその学力が普通・平常として認識し注意や叱咤激励などはしないで来たのです。
その生徒の平常・日常なのですから乱すことも無い。
本人も乱されたいとは思っていないし、そこまでやっても感謝されるどころか最初は日常を乱す乱入者の如く見られてしまいます。
本気の大人は彼らにとって迷惑。
居心地よく頑張ることをしなくとも、一瞬の嵐さえ凌げば日常に戻る小さな世界。
保護者様がたまに怒る時さえ超えてしまえば追い詰められる事もない。
他人は彼らの学力には関心が無い。
感心を持って一生懸命上げたいと無理に関わればクレームとなる。
5教科500点満点中200点未満の生徒を、必死に250点まで持っていっても本人はどこ吹く風。
200点も250点も変わらない。
「あれだけやらされて50点かよ」ぐらいの気持ち。
保護者様も同じくです。
200点が250点になっても悪い物は悪い。
50点上げても保護者様の悪いの範囲内での上下。
そこまでにいたる過程は考慮されません。
数字と結果のみ。
逆に日常を乱された子供は抵抗を見せます。
保護者様にクレームを言う。
そして保護者様から塾にクレームが来る。
だから、一般的な塾は成績の低い子をやりたい様に、居心地よく扱うのです。
200点が250点になっても同じと考える保護者様は、200点のままでいても同じなのです。
我が子の点数にも慣れてしまっている。
それはそう。
長年期待するたびに裏切られ、努力せずにダラダラとして来た姿を見ている。
必死に怒った事でしょう。
無理に褒めたこともあったでしょう。
やりたい様にやらせれば余計に下がり、保護者様が管理しようとすれば反発する。
出来てしまった子供の小さな世界を壊すのは大変。
私は過去19年間。
この子供が作る小さな世界を出来るだけ広い世界を見せようと奮闘して来ました。
それが麻布学院の合格実績。
入塾テスト無しに50%以上が仙台二高・一高・宮城一女・二女(当時)
入塾テスト無しに60%以上がナンバースクール。
昨年度も一番成績の低かった生徒は高専に。
本気で子どもたちにぶつかる。放置をしない。
出来るだけのことを最大限に。
いつも本気の自分で。
誰に対しても同じく。
本気を出すという事は疲れます。
十数年身についている殻を毎日毎日少しまた少しと剥がして行く。
子どもからは日常を乱す乱入者と捉えられます。
「必死に成績を上げたい!」「必死に生活を変えて上げたい」
「将来に少しでも多くの選択肢を」
こちらが必死になる度に、子どもは小さな世界を守ろうと抵抗するものです。
それを可能にして来たのはどうしてか?
私は生徒に毎年
「本気になるべき?」
「厳しくするべき?」
「成績を上げるべき?」
確認します。
その場で答えなど求めません。
聴いた後はしばらく放置。
その後の生徒たちの行動を見ます。
一昨日その話をして、昨日。
中3生のほぼ全員が自学に早く来て、遅くまで自学をして帰りました。
1日じゃ何も分かりません。
そこを判断するのに一番今が良い時期。
定期テストが近くGWのお休みもある。
休み明けまで今の気持ちが続くのかどうか?
私はそこを見ています。
続くのであれば今年も本気で生徒に挑む事になるでしょう。
だらけるようであれば本気でぶつかる必要は無い。
私は毎年この時期、自分自身がどう動くか。
生徒の行動で決めて来ました。
過去19年は生徒に恵まれ、一気に変わって行く姿を見せてくれたので私も本気になる必要がありました。
今年はどうでしょう。
今日一番早く塾に来たのは模試200点台の2名。
生徒が本気を出して欲しいと願うのであれば本気を出そうと思います。
毎年の如く、私の授業において誰も置いて行かずに。
1人1人が自分の学力向上に責任感を持ち、1つでも1つでもとどん欲な姿となるように。
今は判断時期です。
様子を見ています。