2026年10月1日、天気が良かったので何年かぶりにバイクで石巻へ行ってみました。
前回は母校の門脇小学校が震災遺構としてオープンする前で、震災遺構なってからは初めての訪問です。
震災遺構としてどのような展示がされているのか見てみたいというのも訪問目的の一つなので600円を支払い中へ入ってみました。
自分は昭和33(1958)年生まれ、南浜町2丁目に実家があり、仙台で大学生活するまでの子供時代は石巻市南浜町の実家に住んでいました。
小学校はこの門脇小学校、略して門小(かどしょ)出身です。通っていたのは昭和39(1964)年から昭和46(1971)年という事になります。
駐車場にはバスが止まっておらず、乗用車の数も少なかったので、閑散としていると思いましたが、中に入ると小学生、中学生がたくさんいてビックリです。
どうやってここに来たのか不思議でしたが、見ているとバスは都度送り迎えに来ているようです。
ふざけている子供はいないようで、たぶん真剣に見学しているのでしょう。
震災を経験していない子供たちにはこの光景はどのように映っているのでしょうか。
チケットを購入して奥に進むと先ずは被災消防車がお出迎え、床を見ると体育館のような床、上を見上げても体育館のようで、たぶん門小の体育館だったのでしょう。
自分が通っていた頃の門小の体育館は本校舎に向かって右側、方角的には東側で、校舎からちょっとだけ離れた場所にあり、短い屋根付き渡り廊下で繋がれていました。現在の場所的には大体チケットを購入した、総合出入り口のある建物あたりだと思います。
当時の体育館はちょっと古い木造の体育館でしたが随分立派な体育館に建て替えられたものです。
体育館から順路に沿って歩いて行くと本校舎の裏側に出ました。
本校舎の裏、方角としては北側に本校舎とは別棟の鉄筋コンクリート造の建物がありました。パンフレットでは特別教室と表示されています。
昔、通っていた頃はそのあたりには木造のぼろ校舎と呼んでいた校舎がありました。そのぼろ校舎が改築されたのでしょう。
当時のぼろ校舎には2年間過ごしたような気がします。何年生の2年間だったか記憶が定かではありませんが、暖房用のダルマストーブの燃料、亜炭を取ってくる当番もあったと思います。亜炭からそのうちコークスになり、亜炭での化石発掘的な遊びができなくなった!みたいな記憶もあります。
先ずは本校舎1階を裏側から見学となりました。
震災遺構となるにあたり、本校舎両側の一部が取り壊されましたが、その取り壊された東側の昇降口を横目で見ながら、子供の頃職員室前の廊下を小走りで抜けて体育館に向かう、そんな当時の普段の行動がなんとなく思い浮かびました。
黒く焼き焦げた校舎内の様子は、焼け焦げたという事もあり、昔の学び舎の様子を思い出せませんでした。
当時の教室のイメージとはかけ離れすぎていて子供の頃に思いを馳せられないという感じでしょうか。
展示資料を巡っていると南浜町の震災当時の家並みを再現したジオラマがありました。
思わず自分の実家は…、と探してしまいます。
ジオラマは若干家の形が違うかなとは思いましたが、空き家であったにもかかわらず再現してくれてありがとう!です。
また、津波が押し寄せた方向が分かる資料があり、実家辺りは南東方向からの襲来であった事がわかりました。
順路にそって巡って再び終点でもある体育館に着くと当時の仮設住宅も展示されていました。資料として当時の仮設住宅を残すという着想が素晴らしいと思います。

有料の展示施設を見終わった後、当時の校庭部分から本校舎を見て回りました。
内部ではあまり通っていた当時の事を思い出せませんでしたが、外から見ていると、崩れたとは言え、外観は当時のままなのでいろいろ思いが巡りました。

正面の昇降口は記憶では児童は普段使用せず、校舎のそれぞれ端にある、今は取り壊された昇降口から出入りしていたと思います。
通学の昇降では使用しなかった正面昇降口ですが、学校にいる間はちょこちょこ利用していました。正面から入ると右に購買部があったような、そしてその上には放送室があったような、不確かですがそんな記憶があります。
正面階段前には皇帝ペンギンのはく製と捕鯨船の銛(モリ)が飾られていました。
当時は捕鯨が盛んで、肉といえばクジラ肉、食卓にも当たり前に出ていました。
階段の前をさらに奥へ進むと給食用のエレベータ、そしてさらに進むと給食室があり、低いカウンターのような所から給食が渡され、エレベータを利用して教室に運ぶこともやっていました。
あえて当時の思い出のままエレベータと表現しますが、給食しか入れられなかったのでダムウェーターというのが正しいかと思います。
その給食室を左に見ながらカーブして廊下を更に進むと木造ぼろ校舎につながっていました。
そんな記憶が巡りながら正面玄関を見ていると無性に懐かしくなります。

更に西側に進むと水飲み場の跡があり、よく休み時間にドッジボールをしたり、走り回っては水飲み場で水を飲んだことを思い出します。
更に西側に進むと建物は取り壊されたものの昇降口の跡があります。

置かれていた下駄箱の跡もはっきりわかり、ここで履き替えて1年の頃はそのまま廊下を進んで教室へ、高学年になっては昇降口わきの階段を上がって教室に行ったことを思い出します。
校舎東側は職員室や音楽室があって教室は西側が多くて、昇降にはこちらの西側が多かったという感じがあります。
残っている本校舎の西側端から記憶にある1年の教室の廊下が垣間見れます。
子供としてはよほど衝撃的に見えたのか、1年生の入学したての頃の記憶がよみがえります。

廊下はとても広く思え、教室側ではない側には荷物入れが並んでいて立派だなと思ったことが思い出せます。そしてトイレは水洗トイレで初めての水洗トイレに驚いた事も思い出します。
廊下の思い出としては昭和43(1968)年の十勝沖地震の時に、揺れに驚いた男子が廊下のロッカー列に上がって動き回り大騒ぎしていたことが思い出されます。
教室の思い出としては教室の前側に天井からぶら下げられたドア付きTVでアポロ11号の月面着陸の様子を見と事もありました。
昇降口跡の階段を下りると当時はブランコがあったとか、砂場あったとか、プールの出入り口があったなどの記憶もよみがえり、校庭部分から見渡す景色は子供の頃の景色と溶け合い、懐かしくも、悲しくもなります。
その後は門小をあとにして実家があった南浜町2丁目5-4あたりに行ってみました。
家のあった所は今は温室となっていますが家の前の道は狭くはなっていますが残っています。
その道には以前は消火栓のマンホールが当時のままの位置にありましたが、今は撤去されていました。マンホールのような道の構造物はそのまま残るものと思っていただけに少し寂しくも感じます。
家の前の道から伝承館へ子供の頃の道の様子を思い浮かべながら行ってみました。
前回この公園に来た時は閉館日で中を見ることができなかった伝承館ですが、今日は中を見て回れました。
その展示物の中に津波の高さを示す展示がりました。伝承館がある石巻南浜地区の表示はありませんでしたが、AIに聞いてみると5~7m位のようです。
また、展示には自宅のある山元町の津波が14.6mという表示がありました。併記されて遡上高10.4mともあり、津波が海上から地上に押し寄せ、住宅に被害をもたらした波の高さをこの遡上高としているかと思います。山元町ではその10mの津波で6m程の防潮堤がほぼ壊滅され、防潮堤の残骸がほんの少し残るだけでした。石巻南浜町の防潮堤は、当時ひばり野海岸と呼んでいた波打ち際の砂浜に1~2m?位の高さにあって、北上川河口から子供の頃十条製紙と呼んでいた工場地帯まで伸びていました。その防潮堤は破壊されずに残ったようです。しかし、その防潮堤を超えた津波は2階部分まで達する高さであり、住宅密集地では家々を押し流し、地域が壊滅するという甚大なる被害をもたらしました。
当時空き家となっていた実家ですが、震災後数か月経って行ってみた際は、家の周りのブロック塀の跡らしき物を低く残すのみで、建物をイメージできるものは何も残っていませんでした。
伝承館に展示されていた震災直後の航空写真に実家の建物の様子を探してみましたが、家の北側に空き地を隔てて建っていた2階建ての建物前にガレキが積み重なっている映像は確認できましたが、実家の建物付近は平坦になっていて、建物のイメージは見て取れませんでした。
それでも復興記念公園内では震災前の聖人堀や生活道路の一部を残してくれたことにより、子供の頃の記憶を辿ることができます。
壊滅した南浜町ですが、そのような取り組みは、昔、そこに生活していた住人の一人として、とてもありがたいという思いがわいてきます。この公園を設計してくれた人に感謝です。
門小も含めて以前の痕跡を見て回り、過去を悲しくも思い出すのは、渇水でダム湖に沈んでいた昔の集落・構造物が見えてきて、昔そこに住んでいた住民が懐かしくも悲しく思う感情と通じるものなのでしょうか。
また、伝承館には善海田稲荷に関する展示がありました。子供の頃によく行った場所ですが、キツネの石像は記憶になく、ちょっと小高い丘にあった不気味なイメージが記憶にあります。また、海に近い濡れ仏さんまで地下道がつながっているというような迷信を覚えていますが、結構由緒ある社だったことを初めて知りました。
子供の頃の記憶では善海田という名称は聞き覚えはあるものの、生活の中ではあまり登場しない名称でしたが、復興公園内に善海田池なるものが整備され、善海田という名称を後世に残す理由に納得です。
その後、我が家でテレビを買った電気屋さんがあったのはこの辺だな!とか、中華楼南浜支店や米屋、クリーニング屋、床屋があったな、スーパーもあった、銭湯もあったな等の思いを巡らし、がんばろう石巻の看板へ。

看板近くには「こころの森ガーデンカフェ」なるものができていました。
立ち寄って一服とも思いましたが、お昼は北上川沿いにできた「かわまちオープンパーク」元気市場へ行ってみようと予定を組んでいたこともあり、中に入ることはありませんでした。しかし、カフェを庭から見た感じはとても素敵な佇まい、
今度はここでランチを目的に来てみたいと思います。

ということで、随分様変わりをした門脇の街並みを見ながら「かわまちオープンパーク」へ初めて行ってみました。

石巻焼きそばを久しぶりに食べるのも目的の一つです。
子供の頃は焼きそばといえば出汁で蒸すのが当たり前と思っていて、焼きそばというより蒸しそばという名称が適切かもしれません。
今は操業していないと思いますが、子供の頃よく食べたのが石巻のウツノミヤ製麺の麺で、焼きそばだけではなくラーメンも食べていました。焼きそばの袋は蒸しそばと書いてあったようにも思います。ラーメンにはメンマがついていて、そのメンマがとても美味しかったという記憶もあります。
ラーメンに関しては中華楼のラーメンが子供の頃からのすりこみもあり、今でも一番おいしいと思っています。震災後はその中華楼が継承されず、とても残念です。
同様にターワンの味噌タンメン・餃子もよく食べていたのですが、何年か前、火事で閉店となりました。残念でなりません。
そんな石巻の昔の麺事情を思い出しながら石ノ森漫画館を眺め、「いしのまき元気市場」の石巻焼きそばを食べました。
ソース味の焼きそばを食する事が当たり前となった今では懐かしい味!と、感じました。
すっかり変わってしまった中瀬、北上川沿いの風景を眺めて帰宅の途に就きました。














