終活をガチで考える。 | アザノカタリズム

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色んなことを勝手気ままにダラダラ語ります。

前回、映画【PLAN75】のレビュー記事を投稿したけど
この映画、リアルタイムな自分の悩みどころに繋がる内容だった為
正直、見ているのが苦しかった。
 
参照記事
 
とりあえず、映画を語った後、改めて語りたいと思っていたネタが
ズバリ、「終活」について。
 
自分の年齢的に、通常問題のない場合の余命として考えると
”その時”が訪れるのにはまだまだ早い話ではあるけど、
「全く想像もつかない!」と言い切って関係のないフリをできる段階では

すでにないことは実感している。

 

先、ではあるけど想像や考えの及ぶ範囲には足を踏み入れている、

と自覚し始めてから、

その迎える「先」までの人生を作り出すのは「現在」だから

このままで大丈夫なのか凄く不安に襲われて現状に焦るし、

どうやっても将来の予測、見通しが明るくないという現実を

無視できなくなった。

 

そうなると、老後の生活を考えることはこれまでだって何度もあったけど、

それだけではなく、

更にその終着の時の問題まで考えないといけないことに気づいて・・・

 

未婚、子なし、頼れる親族もいない。

他人に迷惑をかけずに去るのは難しいかもしれないが、

後始末くらいはせめて決めておいて自分でできないだろうか。

 

所持物にはそれなりのお金がいる。

その時の時代に葬式、というものがまだ普通に行われるかはわからないが

必要でないとしても、火葬埋葬費用は要る。

 

今はそんな大ざっぱな想像しかできない段階ではあるけど

色々準備が必要になってくるであろうことは年老いる前から早めにしておく方が・・・

 

というのを昔に何かのテレビで「終活」をする人が増えているという特集で、

自分よりもう少し上の年代の人が取材を受けているのを見た記憶がある。

 

その時から、「終活」をすることに抵抗なく情報として受け入れていたと思う。

 

 

そんな自分なのだけど、別に死、に囚われているわけではなく

転職を考える、就活をする、貯蓄をする、資産運用を考える等の

延長線上に「終活」がある。

 

全てはそこに行き着くわけだから、

同じように考えるのは自然なことだと思う。

 

だから何か特別なことが自分に起こったわけでも

病気が発覚したわけでもない。

 

近い将来の人生を考えるのと同じ距離にある問題というか

それを含めて考えていかないといけないことだと思ってる。

 

少し先の未来にもあまり希望が持てない、そんな日も多いから

その先を考える、ということは今をどうにか変えたいということでもある。

 

終わり、を考えるからって今を捨てたわけじゃなく

今があっての終わりなのだから、

最期を考えるということは現在を考えることだ、

 

そう思って苦しい日々、乗り越え方を模索中。

 

どんな人生だったか、を振り返った時の自分の為に

どんな人生にするかを考えて、まだ実行できる今を生きたい。

 

 

・・・とりあえず、

人生100年時代、なんていわれて長生きが怖いと思ってしまう

今の自分の人生はダメな気がする。

 

楽しく生きてみたいものだ。

 

 

参照記事

何に命を懸けるか。