アザノカタリズム

アザノカタリズム

色んなことを勝手気ままにダラダラ語ります。

          語り+ISM(主義)=カタリズムとは?

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               色んなことを勝手気ままに語ります。

バックグランド(家庭環境)はハンディとなる。

 

整っていない土からは何も生えない。

 

障害を乗り越えて生えてくる雑草ですら、

「生えることのできる土」があるというのが前提。

 

背景は関係ない、自分自身で・・・とかいうようなことが

語られる世の中だけど、

たしかにある程度は自分自身でどうにかするしかないし、

どうにかできることもある。

 

ただ、ハンディが及ぼす影響が半端なく大きいことは事実で、

自分で頑張る、どうにかできる、という問題ではないことは確実にある。

 

綺麗ごとばかりの精神論なポジティブさの押しつけは

ハラスメントと同じだ。

 

啓発本も、読む人誰もが当てはめられる「思考の転換」が書かれているが

思考を変えても、在る(バックグラウンド)の実態は何も変わっていないのだから、

 

精神を整え、考え方を変えるだかえで変えられる現実(実態)の人だから

有効なのであって、

当てはまらない人にとってはポジハラと同じである。

 

気合でなんとかなる、という昭和の働き方のような精神論は

凶器だと考える。

 

 

人生とは、自身でどうにもならないことに苦しみ耐えて生き続けることが

ベースにあるように感じる。

 

そんなことを考えた一日。

 

よく、男女関係において

「都合のいい関係」はダメだというのがセオリーだ。

 

なんでだろう。

都合が「良い」のに、ダメだという。

それはどちらか片方にとっての「良い」だから、と

いう意味なのだろう。

 

しかしながら、

そういう関係を続けている当人にとっては

片方、ということではなくおそらくどちらにとっても

「何かが」都合が良いから続いているのであって

その関係がダメだ、というのは第三者の意見でしかない。

 

よくよく考えてみれば、

結局は人間同士の関係は全て何かしらに都合が「良い」から

成立しているものである。

 

友人、恋人、夫婦といった関係性がまさにそうだろう。

都合が合わなければ、そもそも関係性は成立しないのだから。

 

片方が我慢して関係性を続けている場合も、

なぜ我慢するのか、の理由にもよる。

 

もちろん、それが不条理なことの場合は

たしかにそれは「相手の都合」だけが良いのだ。

 

でもそんな関係は続かない。いずれ破綻するもの。

 

続く、ということは何かしらの「都合」があるのだ。

 

綺麗ごとだけではないのが人間。

一概に「都合」があるのが悪いと言えないのではないか。

 

無条件で人を受け入れること程、難しいものはなく

それが出来る人間がどれだけいるのか、ということを考えれば

そんなもんだろ、人間関係ってやつは。

 

でも、そんな都合がある関係も、悪くない。

人間だもの。

 

「先生」と呼ばれる職業は沢山あるけれど

そう呼称される職として納得していないものがひとつある。

 

それが「政治家」だ。

 

彼らは「国民の代表」であり、ただ我々の声を「代弁」する存在である。

「先生」と呼ばれ、我々に偉そぶれる立場では一切ないと

思われるのだが。

 

政治について詳しい、という意味での「先生」ならば、

正しくその「国民の為の」政治を説いていなければおかしいだろうが、

 

近年とくに、国民の声を無視して我が身の為だけに政治をしている者が

横行しているし、

なんなら先生どころか「詐欺師」と呼ばれてもおかしくない者も多数出現している。

 

なので自分は、政治家に関して「先生」呼称は不要。

いや、間違いであると考える。

 

というだけの語りでした。