筋ジストロフィー症を患っている妻と結婚して36年9ヶ月、54歳で早期退職して、山梨から妻の出身地である沖縄へ、妻の介護をする為に、10年前に沖縄へ移住しました。
妻と結婚する前に、いずれ沖縄で生活するんだろうなと思っていましたが、現実になりました。
昨年、十二指腸潰瘍を患い入院、2週間のベット上での生活で、1人での移乗が全く出来なくなり、病気は完治したのですが、リハビリの為に病院を移転、自宅へ戻る為に、毎日リハビリに取り組んでいました。
6月15日の16時49分、選挙の宣伝カーの仕事を終え、自宅に帰ろうとした時に、病院から「奥さんの呼吸が薄いので来て下さい」との電話があり、直ぐ病院に駆けつけました。
看護師から、「今夜は泊まって頂くかも知れない」と云われ、夕食を食べていないので、急いでコンビニでおにぎりを購入して食べ、病室で妻に寄り添いました。
私が声を掛けても、返事が返って来ません。
妻の目線は、1点を見つめているだけで、全く反応がありません。
担当医師より、延命治療の事を聞かれ、延命治療する事をお願いしました。
延命治療についての意思確認書
2時間ほど過ぎ、看護師より「少し安定して来たので、自宅に戻って待機して下さい、送管するようであれば病院に来て頂きます」と云われ、自宅に戻りました。
何時呼び出しが来るのか分からないので、晩酌はせず床に就きましたが落ち着かず、結局睡眠不足のまま朝を迎えました。
妻が亡くなる当日ですが、1週間に一度許されている妻の面会に、妻のお兄さんと一緒に、15時に病院で待ち合わせをしていました。
14時32分に、病院から「急いで来て下さい」と電話があり、直ぐ向かいながら、お兄さんにも、急いで来る様に連絡しました。
妻の病室の中から、AEDを使用している音声が聞こえていました、妻の心肺蘇生を試みている様です。
病室に呼ばれ、医師から「20分以上胸骨圧迫を行い、胸の骨は何本も折れています、これ以上は本人も辛いと思いますがどうしますか」と聞かれ、医師に「ありがとうございました」と伝えている時に、妻の耳元で看護師が「旦那さんが来ましたよ、起きて下さい」の問いかけに、突然脈を打ち始めました、戻って来たのです。
丁度、妻のお兄さんとお姉さんが駆け付け、妻を見守りました。
暫くして、先程まで動いてた脈拍数がどんどん下がっていき、とうとう0を示してしまいました。
医師が時計を確認して3分後に、医師より「15時16分、ご臨終です」と宣告されました。
呼吸不全で、苦しがる事無く、静かに妻は旅立ちました。
もう、目からは涙がこぼれ、止まりません、声も出せれません、ただただ見つめているだけでした。
妻は、最後の力を振り絞って、私達に挨拶に来てくれたのです。
よく頑張った、ありがとう。
いつも冷たい妻の手が暖かかったです
霊柩車に乗せられ、病院を出て行く時も、涙が止まりませんでした。
妻は、亡くなる前日、私が仕事を終えた時間に合わせ病院からの連絡、当日は私や妻のお兄さんお姉さんの面会時間に合わせ、2回とも私の行動時間に、合わせてくれたのです。
妻の為に朝食を作り供えました
2日目の朝食を備えました
紺色のトレーナーですが、妻と結婚する前のお付き合いしている時に、私が妻にプレゼントした「チャンピオンのトレーナー」なので、38年前の物になります。
首の部分や、腕の部分が伸び、へなっていたトレーナーですが、お気に入りの様で、何時も着ていました。
お土産を沢山持たせました
綺麗な生花で飾られました
最後のお別れです
火葬されます
自宅に戻って来ました
妻と一緒に、静岡の海に行った時の写真を遺影にしました。
ピースサインを出し、不謹慎と思われますが、とても無邪気で愛しくて、絶対良い、妻らしいです。
生前から妻は、私のやる事に対して、文句も言わず自由にさせてくれました。
「どうせ、行くなって私が云っても、行ってしまうんでしょ、だったら貴方を必要としている人がいるなら、しっかりとやって来なさいよ、いつも私はここで待っているから、大丈夫だから」と云い、私を送り出してくれました。
なので、火葬まで時間があるので、次の日とその次の日は、私が南城市立佐敷小学校で、今年で6年目になるのですが、プールの指導と管理を任され、小学生にプール指導をして来ました。
妻は、私の人生にとって、最高の人でした。
本当にありがとう、そして長い間お疲れ様でした。
5月2日「イイアス豊崎」に外出した時の元気な頃の写真になります