昨日ごらん頂いた皆様ありがとうございました〜。(感謝のきもち)
付け入るようで何ですが〜、今夜もNHK「介護百人一首」Eテレで放送します。
カロリー計算して料理を完璧にこなそうとしたあまり(理由は他にも重なるでしょうが)
介護うつになった経験を話してくれました。
入院を繰り返すほどの重いうつが数年続いたそうです。
でも、そこから完治して(完治は稀だそうです)今はもう「やることはやりきった」と潔くお話しされました。
番組中、本当に夫のために尽くした明子さんのお話を聞きながら、わたしは思わず、
「大島渚さんも、今このスタジオに来て聞いてくれているのでは〜!?」と話しました。
「エレベーター乗り込み母が自己紹介乗り合い人に笑みがこぼれる」
昨夜、放送した介護短歌の一つです。
放送を見てくれたKさんが、この短歌が印象的だったとメールをくれました。
わたしもこの短歌が好きだったので嬉しく思いました。
実は打ち合わせの中で、小山明子さんもこの短歌が好きだとおっしゃっていたのですよ。
(どの短歌に心を動かされるかで、その人の琴線がわかります。バレると言ってもよいかもしれません。)
詞書きによると、
車椅子に乗っている認知症の母が、
病院のエレベーターで乗り合った人たちに向かって、出身地と名前を大声で言ったそうです。
作者の原さんは慌てて「まだ診察室じゃないよ」と言ったそうですが、そのときエレベーターの中にいた人が、
「わたしも同郷です」と声をかけ、
一瞬にしてみんなから笑いがこぼれ、場が和やかになったということでした。
そういえばこの作者は大阪ですが、
おばあちゃんのボケに、
乗ってくれる人がいたら、関係は病んではいないということになりますね。
むしろ良好になる。和やかに、笑いさえ生まれるというすばらしい逸話でした。
本来、介護の現場には、そうした人やさしさ、思いやり、じ〜んと来るあたたかさが溢れているんですよね。
もちろん大変なことを数えだしたら切りがありませんが、受け止める角度によってずいぶん穏やかなものになるということです。
理学療法士で介護者のカリスマの三好春樹さんは、
「関係障害論」という説を唱えています。
認知症の人に、障害があるわけではないんだ。
認知症の人の行動は、確かにかつてとは異なるけれど、それは意思表示の表れなんだ。それを理解し、受け入れる人がいたら、認知症でも平穏な生活ができるんだという考えです。
ものを投げつけたり、暴れる行動、その裏に隠された要望を読み解く力が問われているということなんですね。
フランスの認知症に対する方法で、「ユマニチュード」というのがありますね。
これも同じです。
根柢にあるのは、病人や障がい者と決めつけるのではなく
「ヒューマンのように扱う」ことから、ということです。
エレベーターの短歌の感想を送ってくれたKさんは、
「こういう優しさがあれば昨日のような事件は起きないだろうに」と書いてくれました。
わたしも本当にそうだろうと思いました。
問題は関係性にあるのではないか。
この左の司会者(わたしですけど)だって、子どもの時から人と同じがいやで、人様からはよく言えば個性的、つまり変わり者だと思われてきたと思いますが、
どうにか社会と折り合いをつけて許されるぎりぎりの端っこで生きてきました。
この方なんてどんだけ奔放かー!(もちろん毒蝮さんはいつもやさしくてダンディすてきな方です♪)
タレント=「才能」、人と違うからこそそれが職業になり、有名になったわけです。
タレントさんにはそういう人、多いですよね。
黒柳徹子さんだって、小学校中退だし、
この間、水森亜土さんは左利きを無理やり治されたあまり吃音がでて、それを克服するために歌を歌い、ついでに絵描きになった(左利きだから両手で描ける)という話をテレビでみましたよ。サワコの朝で。
早い話、みんなちょっとずつ障がい者だし、みんなそれをどうにか受け入れ、
なるべくプラスに転化して、前に進んでいるのです。
ボケられたら、ボケ返す。
あるいはボケに合わせてのってみる。
障害があるとしたら、それは関係性である。
同時に
関係がうまくいっていれば、障害は生姜ぐらいのものである。(今思いついた)
最終的に、平和であれば、ちょっとぐらいどこか傷ついていても楽しく穏やかに安らかに過ごせますものね。
介護短歌はそんなことを教えてくれます。
介護百人一首 7/28(木)20時〜Eテレです
http://www.nhk.or.jp/heart-net/tv/calendar/2016-07/28.html
今夜も見てね。
小谷あゆみ