ー新プロジェクト Xから教育の在り方を考える ー




数日前、トットちゃんの指導者である小林先生が、取り上げられるのを知った。最近はテレビをつけることがなかったけれども、久しぶりにTVを観たいと思った。


1つ目は、自身が小・中・高・専門学校・大学と、講師として教育機関を網羅した過程や、あるいはピアノのレッスンでも、発達障がいに対する教育的配慮は常に存在すること。

2つ目は、この5年間、“幼・保の先生を目指す人達”と一緒に、幼稚園唱歌を追う時間が増えたり、あるいは自身の演奏会で取り上げた小倉末子さん、新美南吉さんや巖谷小波さんの時代背景を学ぶ中で派生した興味感心(歴史の流れに対する)。

時代の転換期に、戦時教育“ではない”新たなものを創り出した教育者たちに興味が出てきた。



以前、アニメ化されたトットちゃんの映画を観たとき、小林先生を通して特別支援教育のあり方を改めて考えることができた。その反面、アニメゆえの可愛さや、教室が電車という空間そのものが、“リアルさのない別次元”に見えた。しかし、テレビで小林先生や生徒さん達の実物の写真や、証言が出てきたとき、リアリティが増した。


小林先生の考え方がとても素晴らしいのは確かだ。それだけではなく、以下の3点も含めて、それぞれに素晴らしいのだと思う。 





①生徒さん達の精神性
黒柳徹子さんの言葉から推測するに、生徒さん達が、子どもながらに小林先生の教育上の配慮や真意を理解されていた。想像するに、小林先生の教育以前に、生徒各自のご家庭内でも情操教育がきちんとなされていて、生徒さんに受容力・共感力・洞察力が備わっていたのではないかと思う。
例えば“発達障がいや病気の特性上、できなくて周りに迷惑をかける部分”があっても、自分のできることを周りの分まで頑張って貢献しようとする人の周りには、応援する人がついている。反対に、都合悪いところだけ病気のせいにして逃げる人も、世の中には少なからず存在する。
黒柳さんの場合、前者のように免罪符にしない生き方をされていることが、格好いいと私は思う。そのような人の学童期というのは、元々、人並以上に考え方が聡明だっただろうと、想像する(学力という意味ではなくて)。




②保護者さんの精神性
これは大きく分けて、以下の2点だ。

1.特性を正しく理解する
現代は保護者から発言の責任追求されることを避けるため、指導者が生徒に対する“集団生活での行き詰まり感”に気付いたとしても、指摘したがらない傾向にある。保護者に学校不信があるように、指導者も同じく保護者不信に陥っている現代の課題がある。これらの結果、親が我が子の発達障がい等に気付かないまま、過ごしていることも少なくない。

アニメに登場する最初の学校の指導者が、トットちゃんの言動に対してこれ以上認められないと、NOを突きつけた場面があった。ここで受け入れてもらえなかったことは、保護者さんにとって非常に辛かった出来事だとは思うが、それがきっかけで、早くして“現段階では、我が子が一定の枠内に収まることが難しい”と、子の特性のマイナス面を目の当たりにした瞬間だったと思われる。

仮に、この体験をなくして最初からトモエ学園のように“周りが合わせてくれ、自由が許される”環境で過ごしていたならば、確かに在籍中は苦労なく生きやすかっただろう。その反面、卒業後に一般社会で生きていくには厳しかったのではないかと想像する。それを踏まえると、トットちゃん親子が、トットちゃんの長所と短所を正しく認識するには、“最初の学校とトモエ学園の両方の経験があってこそ”だったように思う。
どうしても最初の学校の先生が悪人であるかのように見えてしまうが、そのNOもまた、“必要悪”だった。そんな風にも思えてくるのだ。




上記に関しては、トットちゃん側から見た“必要悪”だ。次に、他の子達からの視点で追っていきたいと思う。


映画において、トットちゃんの興味ゆくままの言動が、結果として授業妨害になっていて、他の生徒たちの“授業を受ける権利”は守られていなかったことも事実だ。
トットちゃんに限らず、発達障がいの傾向があるお子さんの場合、特に年齢が低いうちは抑制力が育っていないために、障がいの特性のマイナス面が目立ちやすい。まだ個性として生かすところには、辿りついていない段階であることも多い。
同じように、健常者の子達も、言語能力が育ち、社会経験が育ってくるまでは、「なぜ◯◯ちゃんだけが許されるのか」を理解・納得するに至るのは、非常に難しい。
まして、“授業と生活指導の隙間時間に、指導者が短時間で一言二言で説明せねば回らない”学校現場の大人数の教室での出来事だった。


他の生徒の“授業を受ける権利”を守るならば、最初の先生のNoの判断は間違っているとは思えないのだ。言葉の伝え方を工夫できれば望ましかった、とは思うが。

現代に置き換えても、当時のトットちゃんの状況であれば、大人数でなく少人数学級が望ましいと言えるだろう。




2.信じて待つ力
映画の中で、トットちゃんが小児麻痺を患っている泰明ちゃんの木登りを手伝う場面があった。おそらく泰明ちゃんのこれまでの人生の中で、身体のために泣く泣く諦めざる得なかったことが数多くあっただろうと想像する。その中で、トットちゃんは泰明ちゃんに木登りに誘い、泰明ちゃんは“トットちゃん だからこそ”挑戦する意欲が湧いた。

二人して懸命に協力し合って、泰明ちゃんが登ることができた瞬間は、映画における感動のシーンの一つだった。二人にとって、かけがえのない時間だっただろう。特に泰明ちゃんの場合、のちに亡くなることから、木登り体験が“ 最初で最後の挑戦”だったかもしれない。


現代であれば事故が発生しなかったとしても、保護者さんからクレームが入る可能性が非常に高い。学校側もリスク回避のために、二人の挑戦を止めたことが想定される。そうなると“子ども同士だからこそ”起こった奇跡は、起こらなかっただろう。

今でもトットちゃんにとって、大切な思い出であることから、少なくとも当時、双方の保護者さんが相手のご家庭や学校に対してクレームを入れ、子どもたちにとっても後味が悪い思い出として終わった、ということは起こらなかったのだろう。




③少人数学級ならではの良さ
特別支援学級で指導した際、仮に生徒のアクシデントによる授業の入れ替えや時間の遅れなどが発生しても、「先生の指導のせい」と責める生徒や保護者さんはいなかった。生徒同士だけでなく保護者さんも、日頃からの交流が密であることから、お互いにそれぞれのお子さんの特性を正しく認識してくださっていた。また、優しい子が多い(=自分に障がいがあることで、できない部分を周りに温かく受け止めてもらっている経験があるからこそ、自分も周りを受け止めてあげようとする優しさがある)ことも挙げられる。




行き着くところ、指導者・生徒・保護者の三者の協力ありきで、トモエ学園の素晴らしさが発揮された、ということではないだろうか。