「同志少女よ敵を撃て」という本を読んだ。

 

第2次大戦中、ロシアの話。

 

ドイツ軍が略奪目的である村を襲撃し、村民を皆殺しにし、女性には暴行を加えたうえやはり殺した。

 

猟師の少女一人だけが残った。

 

少女は母を撃ったドイツの狙撃兵、ドイツ軍、そして母の遺体を無下に扱ったロシア赤軍の女性 を殺すため、

 

復習のためという一心で 狙撃兵になった。

 

その目的には途中から、女性を守るため という信念も加わった。

 

ロシアのため、そしてファシズムをせん滅するため、という大義以外に、少女狙撃兵達には個人個人の階層的な動機も求められた。

 

狙撃兵は軍に属しながら、個として敵を討つものであったからだ。

 

様々な動機が少女たちにはあった。

 

戦争は善悪が入り乱れる。

 

母を撃った狙撃兵は、ロシア スターリングラードで ロシア人の市民女性を愛した。

 

ロシア軍の男性達の中には 女性狙撃兵を嘲笑し 憤怒をぶつける者も多く、またドイツ軍陥落後に ドイツ人女性に暴行を加えた。

 

母の遺体を無下に扱ったロシア軍女性は 少女に狙撃術を叩き込み、戦術を叩き込み、生きる目的を与えた。

 

少女たちの動機も 戦争中に入り乱れた。 

射撃中の無の境地、高揚感=自由を手に入れるため と言った 最も手練れた少女は 追い求めるあまりに戦地で判断を誤り、死んだ。

 

子供を守るためと言った女性は 子供を守り切れず、敵とは言え人を殺したことに 戦後長く苦しんだ。

 

戦争中に賞賛された女性兵士たちは、戦後 存在をなかったことにされ 市民に敬遠された。

 

村を焼かれた少女は戦後、村を再興したものの、やはり村民に恐れられ 山奥で生涯を過ごした。

 

 

 

 

信念とは何なのだろう。

 

女性とは何なのだろう。

 

ある条件の元 ある社会の中で 自分を生きるために 何かの信念に縋って 人は生きざるを得ない。

 

社会のうねりに 個人の信念がひねりつぶされることが大いにある。

 

それ以前に 次の瞬間死ぬかもしれない。 死んだら何もない。

 

本来なら戦果を称賛されるべき手練れた少女は あっけなく死に、誰の記憶に残ることもない。

 

砲弾によってたった今死んだ兵士たちから湯気が上がる。魂が上る様子というには あまりに物質的で、無に帰る様子をまざまざと現す。

 

死んだら終わりというのは全てに当てはまる。人類全体だって。

 

 

 

 

本を読むのと同時並行で、

 

実生活で

 

自分が生産的な活動をせずに日々を無為に過ごしている気がして 焦ったり、

 

男性に不可思議な憤りを感じる場面があって、

 

焦りや怒りをどうにもできずに

 

自分でも戸惑った。

 

 

男性への怒りは 女性全体に蓄積した どうしようもないものは あるんだろうな、と思った。

 

それを 夫婦生活で探求していく。

 

生産性がないといけないという焦りも 私はそれに従うことをやめたはずだ。

 

それこそ 人間を生産的な駒と見た極地が戦争だ。

 

 

戦争の小説に共鳴するものがあるのは、

 

人間に刻まれた戦いの本能なのか、

 

あるいはまだ 戦後を生きているからなのか。

 

そうしている間に 世界中で戦争は続く。

 

次世代に平和や 何かを託すのも 危険な行為だ。

 

ただ彼らが ありのまま 過ごせればいいと それだけを願うが

 

人間である限り 無理なことなのかもしれない。

 

 

 

わたしはどこに向かっているんだろう、と思う。

 

人は目的を見失うと病んで力を失うらしい。

 

心も体も健康で、ゆとりがある状態 が もっとも欲しいものだなあとは思う。

 

自分の最終目標を明確にしないと、よけいな回り道や悩みや いらない小目標が増えて消耗するらしい。

 

 

女性であるから、やはり女性のことを考える。

 

身体をもつ存在だから、やはり

 

身体にたまった 女性としての恨みを 突き詰めなければいけないような気がする。

 

 

 

母としての喜び、悲しみ。

 

妻としての喜び、悲しみ。

 

 

 

 

男性と変わらない教育を受けさせてもらい

 

女子校では女子の自立を教育された。

 

鈍感な私は 社会に出ても あまり女性の扱いに憤ることもなく 入った会社もよかったのかもしれない。

 

やはり 家庭に入ってから 一人で引き受ける 女性としてのものが 積もり積もって やっと気づいたものがある。

 

ロシアの女性狙撃兵のことを想う。

 

 

 

 

戦争があってもなくても 環境がどうなっても変わらない、 冷静な視点。

 

さやちゃんの時々見せる すごくクールな視点が、真理をついているような気がする。

 

 

 

環境がどうなっても、生きる技術。

 

私は、ゆとりをもって生きる技術。