違国日記 感想

 

早朝に急いで出かける槙夫。

 

雑然としたリビングが、掃除好きな朝の不在=過去であることを思わせる。

 

携帯のニュースで姉の事故の報を聞く。

姉が「内縁の妻」という立場である、という事実をその時知り 驚く。

であるとか、病院に到着して

「遺体の確認とかは・・」

「ああもう、そんなこと年寄りにできないわよ」

「え、じゃあ・・・」(この少女、朝に両親の遺体を確認させたのか・・? という動揺)

 

最初 何度も素通りした表現に、

後の話を読んで 気付く。

表現が繊細。

 

 

そして朝が目を覚ました瞬間の、

「・・・槇夫ちゃん?」

目をぱちっとさせて、

寝起きで、

あどけない表情の。

まっさらな表情の。

ひな鳥の刷り込みのように、

両親の遺体を確認した、

まっさらな状態で

槇夫と目が合う。

この瞬間に刷り込みされた、

引き取ることは必然であった、

 

この、「まっさらで素直で」「だからこそ 何もない」

健全ではあるけれど 同時に空虚さから逃げられない、

朝の宿命はこの後 何度もリフレインで問われる。

朝という名前の通り、まっさらであることを 運命づけられた 彼女。

 

 

カフェに行き、

うつろな表情の朝。

注文の少しの時間に寝てしまう。

その後 運ばれてきた食事を 子犬のように まっすぐに頬張る彼女。

両親が「死んだ」ことを、「悲しい」か問われて、

ただ、わからない、という彼女。

ぜんぶ、どれもこれもが、 一貫していなくても 人間の反応。

 

 

この後、話の後半で

槙夫の言う様々な言葉たちは

この違国日記という話の骨を決定づけ、

読者の心臓をはっと つかみ、

朝の人生が どこか深い所で方向転換したことを 神託のように示していく。

朝が、「ずっと 後になってからわかるのかもね」 と言ったように。

神託や 出来事の意味というのは、その時には 茫洋としてどこか理解できないものだ。

正しすぎて、わからない。

ずっと 後になってから 気付く。

 

「槙夫ちゃんは悲しい?」

「…嘆かわしいことに 全く悲しくない …わたしは姉を嫌いだったから

 …あなたを気の毒だと思う分 …それが悲しい」

黒塗りの背景で、無表情に述べる槙夫。

 

「あなたの感じ方はあなただけのもので 誰にも責める権利はない」

「…うん 日記をつけ始めるといいかもしれない

 この先 誰があなたに何を言って …誰が何を言わなかったか

 あなたが 今… 何を感じて 何を感じないのか」

「たとえ二度と開かなくても いつか悲しくなったとき それがあなたの灯台になる」

 

灯台、船、帆、海。

この後に何度も出てくる単語。

朝はこの後、時間が経ち 両親の死を受け入れ、孤独を感じるにつれ、

母を灯台、父を帆と思い、灯台も帆もないわたしの船はどこにゆけるだろう、 と

立ち尽くす。

でも、すでに答えは示されていたのだ。

「それがあなたの灯台になる」。

あなた自身の言葉が、あなたの言葉自体が、あなたの灯台になるという 答えが。

朝自身は 自分のことを空虚だと感じるかもしれないが、

あなたの感じ方は あなただけのものであり、

確かに存在するものだと。

 

この話は、朝にとっては 自立の物語。

一言で片づけると陳腐ではあるけれど、「自立」の物語。

 

経済的、精神的に自立を果たしたと思っても、

深いところで「自分だけで立つ」というのは

予想できないほど深く遠い道のりだ。

それまでに培った常識や 大人の意見が無意識にまで染みわたって 邪魔をし、

結局 誰の考えの元に生きているのか、わからなくなる。

自分の感じ方を自分で守ることができない。

そういうことも多い。私がそれだ。

私は死ぬまでに朝や槙夫ほどに 自立をしていけるのか、まるで自信がない。

自信があれば、不安障害などになっていないだろう。

 

反抗期に入ったり、両親の言動に疑問を持つ前に、両親が逝ってしまった。

確かめることも、反抗することも、もはや出来ない。

その突然に表れた孤独が、朝に 暗闇を垣間見えさせ、

深い自立の世界に足を踏み入れさせる。

元々の明るく素直な性格と 放り込まれた深い孤独の世界 のギャップに、

朝は立ちすくみ、空虚さと付き合う人生が始まる。

 

 

 

 

 

 

「朝 わたしは」

「あなたの母親が心底嫌いだった 死んでなお憎む気持ちが消えないことにも うんざりしている」

「だから あなたと彼女が 血が繋がっていようといまいと 

 通りすがりの子供に思う程度にも あなたに思い入れることもできない」

 

朝は、死んだ両親の本当の想いを追い求めてさまようが、それは所詮 断片的にしか知ることのできない幻想。

同じように、槙夫にとって 姉であり朝の母である実里は、

何年も交流を経っており 若いころの自分の記憶にしか生きていない 幻想の存在。

朝と実里が血が繋がっているのかどうかも知らないほどに、何も知らない。

 

槙夫のように慎重な、クレバーな考え方をする人間にとってさえも

心に巣食う幻想はぬぐうことが出来ない。

姉の幻想に対する憎しみが 槙夫が小説家となる原動力と地続きであったから、

今の槇夫の大部分を構成する血肉であったから、

なのかもしれない。

 

「でも」

「あなたは 15歳の子供は こんな醜悪な場にふさわしくない

 少なくとも私は それを知っている」

「もっと美しいものを受けるに値する」

 

「あなたの寝床は昨日と同じだ そこしか場所がない 部屋はいつも散らかっているし」

   ここで何故か私はぐっとくる。

   正直で、飾りがない、でも居させてやるというぶっきらぼうな優しさ。

   両親を失った子供が寝床を得る、ということの重要性。

   綺麗だけど飾ったような親戚や施設ではだめなのだ。

   おざなりの、優しさと呼べるのか分からない、でも少なくともそのままで存在することは当たり前のように許されている状況。

「わたしはだいたい不機嫌だし あなたを愛せるかどうかはわからない でも」

「わたしは あなたを決して踏みにじらない」

「それでよければ 明日も明後日もうちに帰ってきなさい たらいまわしはなしだ」

 

   人を決して踏みにじらない ということの

   簡単なようでいて 途方もない難しさよ。

   心配もする、きちんと自分の意見もいう、朝の父親のように没交渉とか放任なのではない。

   それでいて、踏みにじらないということ。

   考えて生きないと、それはとても難しい。すぐに境界線を踏み越えてしまう。

 

わたしは、人の心を踏みにじらない、人に心を踏みにじられない というところの難しさに

とても苦しんできたように思う。

踏みにじらないというのは 人と団子になって生きているうちは

突き放されて冷たいようにも感じる。

槙夫は 一人で文章と向き合う人生で 人と団子になることはなかった。

群れをはぐれた狼。

だから クレバーな視点を持続できた。

わたしの夫も わたしにとっては 槙夫と同じ。

人に期待をしない代わりに

けして人を踏みにじらない、得難い安心感。

それを最初から感じていたから、こんなにも安心できていたのだろう。

 

 

”この日 この人は”

”群れをはぐれた狼のような目で 私の天涯孤独の運命を退けた”

 

これは朝が大人になってから

回想として書いた文なのだが

普通はかけない文章で 文才あるな~と思う。

本人は空虚でなんの才能もないというけれども、

槙夫ゆずりの文章家なのかな。

 

 

「それから たらいは臼に水を入れて 下に皿を敷くと書く」

 怒った勢いそのままの険しい顔で、

 「たらいってどういう字だっけ」 と朝の口をついて出た疑問もちゃんと回収する。

 少し笑ってしまうが、

 槙夫には人と違う知識と、人と違う律義さがあるのだなということを、頼りがいを感じさせる。

 

 

 

何度も読み返した2話目。

 

両親を亡くしたばかりの15歳の少女に対して、

「悲しくなる時が来たら そのとき悲しめばいい」

何も気負うことなく 淡々と言える強さよ。

 

「かわいそう」とかで

余計な手を出すこともなく。

 

とても真似できない私 34歳も、

槙夫に救われる側の人間。

そして、朝は救われる側で、同時に槙夫を救う側の人間。

 

 

 

 

 

 

私は 受動型アスペルガーの 過剰適応だったのだと

確認する日々。

わたしだけの感じ方を取り戻そうと もがいて

色んなことを諦めてみている。

 

夜も朝も、きちんと生きるのを諦めて、

着替えたり布団を片付ける前にブログを書いてみたり、

体操は嫌なのでやめてみたり、

子供になにか急かすのもやめてみたり。

 

親を辞めている。

自分の空虚さをごまかさないようにしている。

わたしは空虚だ。

それをただ 確かめたい。