力の抜きどころ をかんがえる。
私の中の重さは ひとりの創作に持って行って、
現実を もっと軽やかに泳げたらいいな と思う。
身体に力が入りすぎた結果
変なことをしてしまい
余計に現実が大変になったことも 山ほどあるように思う。
もっと ふわっと 存在できたらいいなあ。
色んな人を見てきて、 その背中を追ってきて、
やはり 私は私にしかなれないのだな と思う。
マイペースでいること。
ちゃきちゃき動くのは、やっぱり無理。一瞬だけならいけるかもしれないけど。
それより、わたしがマイペースで、満たされていて、
春の小川で船を漕いでいるような、そんな幸福感があれば、
それが わたしにできる最もおおきい貢献のような 気がしてきている。
そこにたどり着くのは意外に難しくて、
力の抜き加減を まるで武道のようにきわめていかないと という気もしている。
規制とか評価とか組織とかいろいろある世の中で
うま~く すり抜けて いつもぼわーっと していられたら。
物理的に 人のいない場所に逃げ込むよりも、
あえて 普通の人として普通の人生を送りながら、
心の中は規制にとらわれないで ぼわーっとしていられたら。
いまの日本で会社員をやったり、子育てをしたり、
そんな気を抜くと鎖だらけの状況を生きて
あえてぼわーっとしていて、
周りの人の心を たまに ふっと軽くできたら とてもいいな と思う。
周りがそうならなくても それはそれで かまわない。
人の目を気にしすぎた私にとって
マイペースを貫こうとするのは 静かなチャレンジだ。
怒られることもあると思う。
自分を守ろうと意固地にならずに ゆる~く ただ存在することができれば 私だけの勝利だと思う。
そういう謎の挑戦をしに仕事しに行くのかも(もちろん お金のためが一番だけど)
フラをやってみたいな。
自然や人の苦楽をすべてしょって 平和で柔和なダンスをおどる、とても素敵だ。
意固地になりかけてるなと思ったら
ふっ と抜く。
ま~ どうでもいいや~ と。
流れるように流れるだろう と。
未来が過去に流れてくる、 という話を聞いて
なるほど と思っていて、
例えば 結婚式のようすとか
今度の新居の前で家族みんなでニコニコしてるようすとか
そんなのが そのイベントの決まるだいぶ前に
朧気に浮かんでくることが あった。
ディテールは違うのだけど、
大枠ではなんとなくあっている感じ。
それで、私の晩年の様子も なんとなく浮かんでいて、
森の中の小屋で ひとり タバコのようなものをくゆらせて にやにや(にこにこ?)してる老婆。
髪は白髪交じりのもじゃもじゃで、おじいさんだかおばあさんだか という感じ。
人は訪ねてきたりこなかったり。
来たらきたで楽しく、
ひとりならひとりで楽しく。
自然派ってわけでもなく
全然 家電やその未来にある技術のお世話にはなるし、
わりと適当。
要するに そこらへんにいるおばあさん。
今まで どの時代にもいただろう
そこらへんにいるおばあさんとしての 生活の知恵とかを
何となく持ってる感じ。
そういう人が継承して 絶え間なく続く何かが きっとあるのだろうと思っている。
そうありたいという願望か、
決まった未来か。はたして。
そういう私が晩年にまっているのかな と思うと
なんだかやる気がわいてくるし、
生きてその風景を見る価値があるし、
際限のない ネガティブや闇に足をとられている場合ではないよな~ と思う。
だから、なるべく 楽しく ゆるく 生きたい。
どんな時代だろうと。
もうそうなると、子どもへの責任とかあまり考えられなくて。
よい母にはけしてなれないけど、
母として 人生における達人的ななにかを 見せられたらいいなあ と願ったりしている。
そんなもの見ないで 勝手に巣立っていくんだろうけど。
以上は 多分ほぼほぼ よしもとばななさんの思想の受け売り。
また 誰かの思想にどっぷりつかっているのだった。
良くない気もしつつ、
じぶんの人生や本心と照らし合わせて 共鳴するところを 丁寧に拾い上げると
心が軽くなるし 希望もわくのは事実。
ディテールまで従ったり賛成しなくてもいい。
読者に対して そんなことは到底望んでいないことは、ばななさんの文章をよむとよくわかる。
引越しに対しても 力を抜こう、という感じになっている。
もうこつこつとやることはやったし、
そろそろ 主体はほかの家族にお願いして
わたしは指示に従うだけにしようかな。
と思う。
引越しもなかなか
人生の中の何かを根こそぎ草取りしていくような感があって
人生の転換点だな~ と思う。
面白い。
家にお礼を言ってみた。
今の家は築50年でいろんな人を見てきただけあって
さっぱり、鷹揚としていて、
じゃあね~ という感じ。
双子が生まれてから、育児も喜んでみていてくれた気がする。
対して、独り暮らしのアパートの部屋は、
すごく守ってくれていて、
彼氏くらいに密な関係を結んだ気がする。
今度の新居は、
自分の中のぐじゅぐじゅした甘えはばっさり切るけど
仕事は応援するよ、という感じ。
冷静である意味真摯な感じ。
タロットの女教皇を思い出す。
すべて願望か妄想か。
重さを創作に捨てていきたい、と願う。
よしもとばななさんや 宮崎駿さんなど 色々な知識人、
また父母世代の いうこと、書くことに触れて
やはり世代、生まれ育ってきた環境の違いを とても感じる。
本当に大事なことはきっと 変わらないと思うが。
私の世代は何だろうと考えると
何でも揃っていてあとは落ちるだけ、という勢いのない社会だった というのもあるし
バーチャルが急速に発展した時代でもあるし
地下鉄サリン事件や ノストラダムスの大予言や 生気のないサラリーマンや
なんとな~く 人の作り出すじとっとした、でも果てしなく深くて暗い闇 そして行き場のない感じ
を土壌にして育ったような気がする。
私だけかな。
冥王星さそり座世代 が頭にある。
世代それぞれにしか 作れないものがあって
例えば 鬼滅の刃なんか ほんとに何か 世代 という感じがする。
それが今の子供に大うけなのも面白いなあ。
私も その世代だということを踏まえて 自分にしか表現できない何かを 模索できたらなあ、
表現できたら と願う。
創作する人が無限にいて、
それぞれの切り口で物事を表し、それは絶え間なく続いていること。
その豊かさを思う。
それに際限なく触れられるだけで 生きる価値がある。
ちょうど アニメや映画の名作が毎クール途切れなく生まれていくように。
多くなくていいから、日本の中の誰かに 読んで、見てもらえる何か、作りたいなあ。
「さきちゃんたちの夜」という短編集の「鬼っ子」という話がとても好きで。
宮崎県のどこかの小さな平屋で、
小鬼の像を作り続けて死んだ 女性の話。
高名なアーティストにもなれなかったし、
人とうまくかかわることもできなかったし、
結婚もせず、子どももおらず、
晩年まで日本のどこにも居場所はなかった。
でも、ふとたどり着いた 宮崎の 禍々しい気を放つ井戸を見つけ、
小鬼をつくり、
死後も未来にわたって土地を小鬼に守ってもらおう、
それこそが生涯をかけた仕事、
と黙々ととりくんだ話。
土地を守る小鬼を作るだなんて、
はたから見れば なんて意味のない 馬鹿げたことをしている と思われるだろう。
でも、本人は本気だし、
数少ない人が その仕事の崇高さをわかり
死後も遺志を継ごうとしている。
そんな話。
わたしはその話が大好きだし、
よしもとばななさんが一番言いたいことのエッセンスが詰まっている と思う。
高名だとかまるで関係ない。
誰にも見向きもされない 崇高な人生を歩む 市井の人。
じぶんの晩年に向かって、
鬼っ子のムメさんのような生き方をしたい
ととても思う。