大谷選手がおこなった被災者や子供たちへの支援に対し、
私は相手を喜ばせようとかは考えていない。
それは相手の受け取り方次第なので、それで元気が出た!だとか嬉しかったと言ってくれるなら、それでよかったな…と思うだけです!
というような発言をされていた。
大谷選手はあの若さで何者なのでしょう!?
人として凄すぎる!
謙虚とか奥ゆかしいとかいう以前に、もっと深い事をこの人は言っている!と思った!
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仏教に触れていくと、盲冥(もうみょう・もうめい)という言葉に出会う
盲冥をググるとこんな事が書かれている(青字)
「盲」とは、自分自らが目をつむって見えない闇。 「冥」は、目をしっかり開けても見えない闇。
転じて、盲冥とは、真実の道理にくらいことを指す。
世の人々は、この盲冥の中に生きている!
見えていない!ということに気づけていないのが我々なんだ!
と教えられる。
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仏教思想にも深い洞察をお持ちだった遠藤周作は、こんな言葉を残している(青字)
人は人の前を横切らずに生きていけない!
この遠藤周作の言葉の意味を解釈すると、
私たちは自分が思うように生きているが、知らず知らずのうちに他者を傷つけていることがある!
という「盲冥」という事実を言っている。
我々は意識しなくとも、常にこの盲冥の中にいるはずなのに、
言葉や行為というものは
受け取った側の者にある!
こんな事をさらっと言ってのける大谷選手の凄さはそこにある。
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この間、「真実」と「事実」の違いについて、仲間たちと考えた。
事実は誰から見ても1つとするなら、真実とは、一人一人がその人の経験や思考から作り出すその人にとってのストーリーである…
と話した人がいた。
なるほど上手いこと表現するな…と感心した。
またまた「事実と真実」でググってみると
真実は、事実とちがって、想像・推測を排除しない。
事実は、主観的な解釈・理解を排除し、生起している事柄そのものをそのままに示すものである。
とあり、1例として書かれていたのがこちら↓
日本で軟水を出された外国人にとって「これは水です」は事実。 でも、自分の認識している水とは違っているから「私にとってこれは水ではない」はその外国人にとっての真実。
我々は、コナンが言うところの「真実は1つ☝」という言葉に惑わされがちだが(笑)
ひとつの「事実」に対しても、1人1人に違った「真実」がある…という認識を意識的に持つことは、人間理解にとって、とても大切なことのように思う。
言い換えれば、例え自分と異なる意見を持つ人だったとしも「あなたはそう思うのですね…」と一旦受け止める姿勢が大切なのではないか!?ということを教えられる。
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「盲冥」の中で生きている我々が、相手の受け取り方を解せずに話す場面なんて日常となっている。
例えば
子どもが欲しくてもできなかった夫婦に、子どもたちとの家族写真がついた年賀状を、なんの気なしに送ることもある。
人の幸せは幸せとして祝福し微笑ましく見てくれる人もいれば、何となく恨めしく思う人もいるだろうし、不快に思う人もいるかもしれない。
かといって家族写真を年賀状につける人が悪いということではない!ただ、何を感じるかは年賀状の受け取り手に委ねられているというだけ。
代々男性が跡取りになる由緒ある家に嫁ぎ、男子を産んだ女性に、「跡取りが出来てよかったね!」と伝えたとして、
「ほんと、安堵しました😊」と、それは本音なので笑って返事できる人もいれば、「女の子だったらどう思われたんだろう?私は男の子でも女の子でもどちらでもよかったのに…😑💭」とモヤモヤした気持ちになる人もいることでしょう。
コロナ禍の時なら、「早く元通りの生活に戻れるといいですね」と何気なく発した一言で、人々のコロナ収束を願う会話を聞いたある高校生は「自分は虐められて学校に行けなくなっていた。その学校に行けないという事で親に対して後ろめたさを感じて生きてきたが、休校でリモートになって心底安堵している。コロナ禍が続けばいいのに…と願うこんな自分はダメな人間なんですか?」と悩む高校生もいた。
誰が悪いとか悪くないとかそんな問題ではない。
こちらが発した言葉とか、こちらが行った行為というものは、受け取った側のものにある!
今日のブログは、
このことを意識してインタビューに応える大谷選手の、人間観察の奥深さに感じ入った!というブログでした…