⚠長文です


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少し前のことだが、大谷大学名誉教授であり臨床心理士でもある先生のお話を聴く機会に恵まれた。


とても物腰が柔らかく腰の低い方で、その目は何かを包み込むようなとても澄んだ目をされていた。



先生の話は、ご自身の辛く悲しかった生い立ちを語ることから始まった。


先生は生い立ちを語る時にご自身のことをまるで他人の事を話すように、過去の自分のことを苗字で「○○○さん」と語った。


そうすることで客観的目線を保ち、感情的にならずに聴く者たちに語りかけているようだった。



その少年期の内容は壮絶なものだった。

本当に苦しかったんだね…と胸が痛くなり、かつての痛々しい少年に想いを馳せた。



人生には「起承転結」があるとしたら

先生は青年期においては、ご自分の悲しく辛い生い立ちの「起」の部分を他者には隠し続けたと言う。



先生が臨床心理士として悩みを抱える人に向き合っていると、大抵の人の苦しみは自分と同じく、幼少期からの「起」の物語と深く繋がっていることが多いそうだ。



「この辛かった幼少期から少年期にかけての「起」の部分を青年期になった大学時代も友人たちに語れなかった!…今こうして語れるようになった自分がいて語れるのです!」とも仰っていた。


心底辛い時、人は口をつぐんでしまうもので、語れる場があるということは心の解放に繋がりやすく、その人にとっての一縷の救いとなる。



それくらい、心に刺さった手負いの矢は、一度刺さったらなかなか抜くことは出来ずに、フラッシュバックとかトラウマとして、心に矢を刺したまま大抵の人は生きていく。



けれども、心に矢を刺したまま生きていくのはとても辛いことだからこそ、そこから何とか抜け出そうと人はもがく。



人生に起承転結があるとしたら、転換点の「転」を探し求める中で、大学卒業前に恩師が書いてくれた『人生に学ぶこと』という言葉をお守りのように心に仕舞い、先生の人生の求道の旅は続いていった。



先生は年嵩を重ねていく中で、辛かった過去も何か大いなるものによって采配されてるかのように導かれて今の自分が形成されている事に気づかされたように思うと仰った。



これは、一つ一つの事柄や状況が、それだけでは何の関係も意味もなしていないようであっても、あるとき、それらが一つのまとまりとして、全体的な意味を示してくることに気づくというもので、


過去の辛かったり苦しかったりした経験も全て、今の自分にたどり着くための布置だったと、初めて思うことができたという話をされていた。


布置という言葉を臨床心理学用語辞典で調べると、

個人の精神が困難な状態に直面したり、発達の過程において重要な局面に出逢ったとき、個人の心の内的世界における問題のありようと、ちょうど対応するように、外的世界の事物や事象が、ある特定の配置を持って現れてくること。共時性の一つの現れであると考えられます。

と書いてある。



この布置という言葉は、ユング心理学に「コンステレーション」という概念があり、日本語で「布置」と訳された言葉でもある。


コンステレーションの語源は、元来占星術において、出来事や人の運命を左右する星の位置を意味するもので、後に星座を表す言葉となった。


ひとつのバラバラの星も、線で繋いでいくとひとつの意味がある星座として形成されるという例えが、「布置」の説明の例えとして使われることもある。



仏教にも「安楽ならしむものをもっての故に、星宿(しょうしゅう)を布置す」と書き記している(大乗大方等日蔵経〚化身土巻〛)


大いなる何かに采配され導かれるという、何か目に見えない力に気づくことが安寧の心境にかかわってくると釈尊は考えたのだろうか?



一見、受け入れがたいと思われるような出来事や、思いもかけないハプニングなどで混乱したとき、その渦中にいる間は、そのことにしか意識が向かず、悩んだり迷ったりするのが人間というものだが、


その「辛い出来事」は、より良い未来に向けての、「きっかけ」に過ぎないのかもしれなかったと、後になって振り返ってみて初めて「全体」が見えてくる。


このように、辛かった経験でさえも
「あー、あの経験は、自分の成長にとって欠かすことのできない、大切なものだったんだ。」と、やっと気づけるようになる。



「あの辛い幼少期がなかったら、今私はこうしてここに絶対に立っていなかった。皆さんの前で話すこともなかった。」と、ダルク(薬物依存症からの回復と社会復帰支援を目的とした回復支援施設)のメンバーでもある先生は仰った。







今年に入って、私の父の再婚相手だったAさんがお亡くなりになった。

 


【お見送り】


亡くなった父の子どもである兄と姉と私とその家族だけでAさんの通夜と告別式を終え、四十九日法要の頃にお寺への納骨も終えてきた


次男だけは学会で遠出していて通夜に間に合わなかったが、翌日の告別式は父の孫たちも揃ってAさんのお見送りをした。



父親の妹たち(我々の叔母たち)3人は、Aさんと色々あって憎しみを抱いており、その時がきても葬式に呼ばないで欲しいと頼まれていたから、葬儀を終えた後日に訃報を知らせた。



Aさんには、血縁のお姉様と可愛がっていた甥っ子さん2人がいた。Aさんは、ご自分の親から相続した財産は全てこの甥っ子さんたちに相続がいくように遺言書も書いていたくらい可愛いく思っていたようだ。


お姉様は若い時から、ある新興宗教の熱心な信者で布教に余念がなく、透析患者であった身体の弱い妹に関わっている時間がない人だった。


お姉様とその東京から来たという次男さんは、ご自身たちの宗教的事情で通夜と告別式の一連の仏式で行う葬儀を欠席するということで、通夜式の前にお華(花)代とお淋し見舞いを持ってお別れに来てくれた。


そして、我々に「今まで妹のためによくしてくれてありがとうございます」と仰り


学者で現在ドイツにいる長男さんはリモートでお別れをして同じくスマホ越しに、我々にお礼を述べてくれた。



【お世話】


Aさんが亡くなった後は、仕事が私に戻され、老人ホームの部屋にあった家具や荷物の片付けを夫と2人でした。


私にも意地があったので兄と姉に遺品として欲しいものがあれば先に持ち出すように言いおいて、それらが終わってから片付けに入った。


Aさんはブランド品しか着ない人だった。姉には娘さんたちがいるので洋服類は片付けも兼ねて全部持ち出すようにお願いしておいた。


そしたら、「老人ホームに持ち込んでいた(ブランド品の)高価なバッグや洋服は、甥っ子さんのお嫁さんたちに殆どあげてしまったようだよ」と姉が言っていた。引き出しには大量のパジャマだけが残されていた。



今は、自分が入る墓が欲しくてAさんが父を説得して建立してしまった墓の墓じまいの担当も兄と姉から任された私はその準備に入っている。



【苦悩】


正直言って、私にとっての母親は、私を産み慈しみ育ててくれた実母だけだった。


20歳で母を亡くしてからまだ2年しか経過していなかった頃にその人が家の中にやってきた時から、愛する母の事を家の中で語り会うことも出来なくなった。


ある日帰宅したら母が愛用していた食器類が趣味に合わないからと外に捨てられていた時には大きなショックを受けた。その時の食器の一部はそっと自分の部屋に戻して現在も我が家で使われている。



父よりも14歳も若く、父のことが大好きで押しかけ女房のようにして家の中に入ってきたこの人の心は父への執着心が半端なく強かった。


私が結婚する時は、結納品ひとつにも羨ましがって泣かれ、父が子を思う親心にまで嫉妬し、私は再婚相手の方から一方的に夫の愛情を巡ってライバル視されていたように感じていた。



それでも、いい子ちゃん気質で相手にきつく言えない私は、 傍目には「成さぬ仲なのに仲良くしているんだね~」と見られていたが、実情は、父の再婚相手との関係に何十年間と私は苦しんできた。


最初が肝心だとばかりにAさんは、父がいないとこで「私はあなたたちの母親にはなれないから」と言い、信じられないことに「夫の子は可愛くない」とハッキリ物言う人だった。



晩年になると、「夫から相続した部分は子たちに残すから養子縁組をしたいけど、自分の親から相続した財産は自分の血縁者に戻したい。どうしたらいいと思う?」と、


私に全財産の管理を任せていた老人ホーム入居当時のことだから仕方ない事とはいえ、勝手に遺言書に書いて公正証書を作ればいい事なのに、こういう事まで私に相談してくるような人だった。



Aさんは結婚したときからテニスをしたり海外旅行にも父と何度も行くなど体調はすこぶる良かったとはいえ、透析患者だった。


この病気持ちという条件が、私たち子どもからの同情をかい、身体がキツイから助けて欲しいと言われればNOと言えない条件を作り出してしまっていた(>_<)



私はどちらかというと自分の意見を持っているタイプでパワハラとかにもあいにくいタイプだと自分で思っていたが、何かにつけて同じ市内に住んでいる私を頼ってくるこの人の、強情で自分の思った通りに相手をねじ伏せようとするねちっこさの前に私の主張はかき消され、根負けしてしまうのが常だった(>_<) 


私が怒らないからと言って私は舐められ過ぎていたのだろうと思う。


自分でも自分の昔のお人好しさ加減に腹が立つくらいで、タイムスリップしたら父親の結婚に反対し最初から距離を取るように昔のいい子ちゃん気質の自分にアドバイスしたいくらいだ。



私が、晩年の父を旅行に連れていくことも嫉妬深いAさんから阻止された。認知症になった父を私が喫茶店に連れ出したことが分かると、電話で早く帰るようにヒステリーな電話をしてきた。


私へのライバル心や嫉妬に加えて、他者を思い通りに動かそうとする強いエネルギーを持ったこの人から頼まれ事をされるにつけ、断ろうとしても断れない押しの強さから逃れられなかった私の人生は、この人の存在によって心の隙間に冷たい風が吹き荒れることもあり、38年間も暗い影を落としていた。



【心身一如】


特に晩年認知症になった夫の介護を巡ってAさんにも大きなストレスがあったのは分かるが、この人は益々攻撃的になり、私は心身ともに疲弊していくことになった。


心身一如で心のストレスは身体への不調になって現れることをこの時に身をもって知った。


当時医学生だった次男が、「このままではお母さん心身症になってしまうから、○○さんから離れたほうがいい。電話を断り今後はメールのみ受け付けるようにして自分を守らないと」と、携帯へかかってきたベルに心臓をバクバクさせる私をみてそう言ってくれた。



「俺ならとっくに絶縁してる。ガチャんと(電話を)切ってやれよ」と電話口のAさんと私のやり取りを見るにつけ、夫もこのように怒っていた。


対応し続ける私を見てると夫もイラつくようだったが、「私しかいないんだから仕方ない」と反論し、自分でも自分をがんじがらめにしていた。


ところが何故か「頑張らなくていい。お母さんは自分を守って欲しい」と言ってくれる次男の言葉は私に勇気をくれた。



そんな頃、長男からアドラー心理学について書かれた著書『嫌われる勇気』を紹介され読んだ。


自分はどうしたらいいかを模索していた時期とも重なっていた。


私は自分の事を唯一分かって守ろうとしてくれる家族によって救われた。



【頼りにしているよ攻撃と感謝攻撃】


うつ病になった夫の母親や妹の世話もしていく中で、「頼りにしてる」「あゆみさんしかやれる人いないもの」と言われる事に嫌悪感を感じる事が今でもたまにある。


私から電話する事はなかったが、Aさんから頻繁にかかってくる電話相手を何十年とやってきて、こちらが告げ口をしないのをいい事に、宗教に走っているお姉様のことや、私の兄や姉の悪口を散々聞かされ「頼れるのはあゆみさんだけ」という言葉に縛られてきたからだ。


また、「あゆみちゃんには感謝してる」という一言さえ言えば済んでいく兄や姉やAさんのお姉様からの感謝攻撃によって、私は父親とAさんの世話から逃れられない立場に追いやられていたからだ。



他者が物事から逃げて私に押し付けようとする方便として使っている感謝や「頼りにしてる」という言葉だということを感じ取った時に、嫌悪感が起きる。


感謝や「頼りにしてる」と言う前に、まずは自分も少しは行動で努力する姿を示して欲しいと思ってきた。



【交代】


父亡き後は、父とAさんが共に暮らしたサービス付き高齢者住宅の老人ホームから、病院系列の老人ホームへのAさんの引越しまでは私のほうでやらせてもらい、私がいなくても兄と姉だけでもなんとかなる道筋をつけた


こうやって、その後のコロナ禍の中でのAさんのお世話は、それまでの何十年間、お世話には一切関わってこなかった兄と姉に交代してもらって私は手を引かせてもらった。


このことは、父が存命中に、私からの申し出により、Aさんと兄と姉と私の4人で話し合いの場を設けて父亡き後のことを決めたことではあった。


それでもこの時点では、兄と姉に、父亡き後のAさんの世話を自分たちだけでしていくという覚悟はなく、結局私が色々なことをやる羽目になりつつあった。



ここまで道筋をつけたのだから、兄には仕事があろうが、姉は他府県在住だろうが、兄と姉でもこの人に関することはできるだろうと考えた私だが、中途半端に関わると結局は兄と姉も私にすぐに頼ろうとしてくるので、ゼロか十かの極端な関わり方しか残されていなかったのが残念で、Aさんとの「絶縁」を選ばざるを得なかった。


Aさんも、私が言ってもいないことを吹聴して私を悪者に仕立てあげて私との縁を切ってきたが、


兄と姉の私への甘えを絶たせる為に、わざと私からの怒りをかうこと覚悟でAさんは嘘を吹聴したのではないか?私への最後のAさんの思いやりだったのではないか?と私は密かに想像した。



それでも私は、弱ってきている人を見捨てたという罪悪感のようなものに苦しみ、自らを救いたくてセラピーの勉強を始めるきっかけになった。


そういった中で「布置」という言葉に出会った。



【いつの日か、布置だったと思えるように】


父がせめて別の人と再婚していたらどうなっていただろう?というタラレバを考えることはあっても、実際には過去は変えようがない。


父の前では見せない顔を私には見せてきていた裏表のあるこの再婚相手との縁を断ち切りたい衝動を、いい子ちゃん気質の私は父の為に抑圧し続け、悪い娘になれなかった過去の自分がいた。


父は私の苦悩を知らずに天国に旅立った。



こういった、父の再婚によって新たに始まった人間関係に傷ついてきた体験にも、いつか「布置であった」と、思えるようになるだろうか?


「あー、あの経験は、自分の成長にとって欠かすことのできない、大切なものだったんだ。」


と、過去の全てを肯定的に、あるがままを受け止める心境にいつかなれる時が来るだろうか…



母を20歳の時に亡くし、3年半前に父を亡くし、そして今回おとずれた父親の再婚相手の死。


別れという節目が、再婚相手への憎々しかった感情を感謝へと、自分の中でいつしか変えていく事が出来たら…


父親があの人と再婚したことも私にとっての「布置」であったと、心から思えるときがくるといいなあ…と、考えるようになった。