このブログは、2019年10月5日に本のあらすじを書いたものですが、最近は親族の「うつ病」サポートの経験から「うつ病」についてブログを書くことも増えてきていますので、関連ブログとして再掲させて頂きます。
以下
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川渕圭一氏の研修医物語シリーズ2作目の後に発行されたこの本をkindle版で読んでみた。
(2012年4月初版)Kindle版
ボクが医者になるなんて (幻冬舎文庫) Amazon |
以下あらすじを書いてます。
完全ネタバレですので、嫌な方はスルーをお願いします
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医師であり作家である川渕氏(1959年生まれ)
私よりも年上だけどほぼ同年代と言ってもよいのかな
なので川渕氏が若かりし頃の時代背景は実感を伴ってわかる
東京大学工学部時代、大学院に入学するも大学へは行かず、パチプロとして過ごした2年間とその間にナンパして付き合いを始めては別れた2人の彼女とのこと。サラリーマン時代の「うつ病」から医学部受験を決意し結果を出すまでのことが主に書かれている。
小説形式で書かれた自叙伝と言ってよい作品です。
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もう少し詳しくあらすじを書くと・・
自分の前に立ちはだかるように感じていた脳外科医だった父親は、東大医学部を卒業し、体力も半端なくタフガイな地元大学医学部教授だった。
著者にとって、医者とはこうあるべきもの!というイメージが父そのものになってしまっており、そんな父親に気遅れし苦手だった。
のんびり屋で不器用で小心者で気が弱く、小学校、中学校時代太っていた著者はいじめられっこ。
自信のかけらもない自分には医者は向かないと、高校生時代は医者になろうとも思わなかった。
そして2浪の末入った東京大学工学部在籍時に突然襲った父の悲劇的な急死。
学会出席の為に東京へ出て来ていた父から宿泊先のホテルの中華に誘われ、今迄になく優しい父と初めてお酒を酌み交わし話し込んだ晩のその明け方のことだった。
父親はあのホテルニュージャパンに宿泊していたのだった。
我々世代ならあの火災ニュースは鮮明に覚えているはず。
迫りくる火の手から逃れる為に耐えきれずにホテルの窓から飛び降りる人々の凄惨な現場をテレビ画面は残酷にも映し出していた。
解剖の結果、著者の父親も3階まで逃げるも火の海に耐えきれず火だるまになって窓から飛び降りたものと思われた。
凄惨極まりないショッキングな父親の死
遺体安置所で見たあまりにもむごい父の姿と遺体安置所のなんとも言えない異臭。
それでも、あのような形での父親との別れも、思い出さないようにして過ごした学部時代。
工学部の学問に興味は持てないまま過ごした大学では、やる気ある学生とは言えなかったが、何とか留年することなくストレートで卒業した。
モラトリアム期間を確保する為に進学した大学院には顔を出すことなく、ナンパして付き合うようになった彼女も入れ代わりながら、2年間のパチプロ生活を続けた。
世間では水面下での就活時期であることも知らずに人よりも遅れての就活。院は中退した。
なんとか中堅商社に就職したものの、連日連夜の終電ギリギリ迄の仕事と接待でアルコール漬けの日々。体を壊すほどのハードな生活に嫌気がさし、1年後に外資系メーカーへ転職。
小さな工場勤務でQOLよろしく満足を得つつテニスに打ちこんだ。その後本社へ移って外国人上司と洗剤事業に奔走する日々が続いた。
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ここからは、当時の著者と同世代の息子を持つ身としては、気楽な気持ちで本を読めなくなる。母親はどんなに心配しただろうと、どうしても母親目線になってしまう
外資系メーカー勤務3年目を迎えた頃、著者は20歳代最後の年齢になっていた。
自由きままに生きてきたつもりでも、その実、常に後ろめたさを感じていた20代。
それまで自分の心に巣くってきていた後ろめたさを見つめ直したまでは良かったが、後ろめたさの背後にあるものの答えがみつからないまま迷路に入り込んで、引きこもりが始まった。
引きこもりは、テニスボールが目に当たって怪我したという些細なことが引き金になった。
「僕の頭はいつかきっともとにもどる。だからどうかほおっておいて」という息子に対し、会社に完全に行けなくなった息子の事態を知った母親は、当然、東京で一人引きこもってしまった息子をほおっておくことなんてできない。
連れていかれた郷里の病院でくだった診断は「うつ病」
薬を強要してくる精神科医。
薬を飲んでしまったら、自分は自分でなくなってしまう気がした。
正真正銘、狂気の世界へと足を踏み入れてしまうのではないか・・という恐怖。
しばらく実家に留まるように説得する母親と医師からの言葉には耳を貸さず、薬を袋ごと駅のホームのゴミ箱に捨て、自分の狭いアパートの部屋へ戻って行った。
じめじめと続く梅雨。夏らしくなかったその年の8月。
9月に入って突然、太陽の光を浴びたくなって4日間の日程でサイパンへと飛び立った。
リフレッシュできた気になったのは初日だけだった。
うつ病の人間にこの荒療治は効かず、良くなるどころか病状は更に悪くなって戻ってきた。
精神科医を変えても医師と信頼関係を築くことは出来ず、母親を安心させる為と、会社に提出する診断書を書いてもらう為だけに精神科医の元へ行き、処方された薬は全てゴミ箱行きだった。
この病気は精神状態にもムラがある。
秋になり、3か月間会社を休んだ頃、自分の意思で会社へ顔を出してみた。上司たちも3カ月前と同じように迎え入れてくれてありがたいことだった。
それなのに1時間とデスクに座っていられなかった。
たくさんの人が行き交うオフィスにいることに耐えられなかったのだ。
トイレに行くふりをしてオフィスを飛び出し、偶然通りかかったパチンコ店に入ってみたが、かつてパチプロだったことが信じられないくらいに、その喧騒とたばこの煙に耐えられず席に座ることも出来ず店からも逃げ出した。
そして自分のアパートのベッドでぐったりと横たわるのだった。
11月。精神状態は再び悪化。
とうとうベッドから起き上がれなくなった。
母親から毎週のように届く宅配便が開封されることなくうず高く積まれていく。
最も恐ろしいのは電話のベルの音。
電話線を引き抜きたい衝動に駆られるが、そんなことしたら、母や会社の同僚やテニス仲間が心配して、いずれここまでやってきて、自分を病院へ送り込むかもしれないと思うと、それは出来なかった。
「うん」「大丈夫」だけの返事でもいいから、生存していることを電話で知らせる必要があったのだ。
唯一、当時付き合っていた彼女との月に一度のデートだけは、そんな生活の中でも続けていた。
彼女との結婚まで考えていた著者。彼女にだけは会いたかったのだ。
デートはしてくれても二人の関係を深いところまでもっていこうとしない彼女。
月に一度のデートに応じてくれてはいたが、彼女からは「あなたって、ある晴れた日に、ふっとどこかへ飛んでいっちゃいそうな・・そんな感じがする人ね」と言われたことがあった。
それでも、商社時代に会社で知り合った彼女は、現在、彼がそこまで酷い状況にあることを知らない。
雑踏を前に身をすくめる今までと違う彼を見て、どこまで察知してくれていたかは著者にも知る由もないが、無理に元気づけようともせず黙って眺めていてくれた。著者はそのことに救われた。
けれど、その後も回復の兆しが見えぬまま、気がつけば、年末になり1989年の年始を迎えていた。
クリスマスも正月も自室アパートにこもり、母親が玄関先にそっと置いていってくれたおせちにもほとんど手をつけることはなかった。
年があけても続く不毛な病院通い。トータルで3人の精神科医にかかったが、3人ともが揃ってうつ病と診断し、そのうえ全く同じ薬を処方した。
医師から見たら典型的なうつ病だったとしても、その症状のあらわれ方は患者によってさまざまなはず。
だから治療に関してもっといろいろなアプローチをしてくれてもいいのではないか、と著者は感じた。
そしてそれ以上に医者たちは、著者とコミュニケーションを取ろうとしなかった。
病状に関しては質問してきたが、どう生きてきて今何を考えているか・・という人間に対する生き方への質問ではなかった。
そして「薬を飲んでいれば治るから薬をきちんと飲みなさい」とだけ言うのだった。
医者は患者が薬を飲んでいないことも知らない。
能面のように感情を表さない医者。
自分に興味を持っていない人間に、本当のことを話す気になるだろうか?…
著者は、これくらいなら自分が医者になったほうがましだ・・と、若い頃から医者になる気は全くなかった自分だが、そんな気持ちをもつようになっていた。
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引きこもりが続き毎日ベッドの上で過ごしていたある夜、ふと思い立って昔聴いていたFEN局のラジオをかけた。
毎日のように流れてきたその曲は
マイク&ザ・メカニックスというグループの『The Living Years』
ある男の父親に対する心情を吐露している歌だった。
歌の内容はこのようなものだった。
男は若い頃から厳格な父に反発し続け、父の期待に背いてミュージシャンになった。
父の死に目に会うことすらできずに父はこの世を去った。
その年の暮れ、男は自分の子を持った。
我が子を持って初めて父の声が魂となって聞こえてくる気がした。
父が生きている間にもっと話しあっておくべきだった・・
世の反目しあう親子たちへ、そして、互いに歩み寄ることを忘れてしまった全ての人々に男は呼びかける
ちゃんと向き合って、本音で語り合おうよ
運命に屈して、未来を台無しにしてはいけない。
諦めなければ、きっといつか、新たな展望は開けてくる
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主人公はCDの時代になってもレコードの収集マニアだった。
レコードを買って、この歌を毎日毎日聴いた。
歌を聴きながら、著者は後ろめたさを感じて生きてきた自分と向き合った。
今まで自由きままに自分の道を歩んできたつもりだったが、父の「医師になってほしい」と内心では思っていただろうという期待に背いてしまったという後ろめたさが、父親のことを必要以上に思い出すことをしてこなかった要因なのかもしれない。
ホテルニュージャパンで最後の晩餐をとったあの夜、父は別れ際にこう言った。
「これからは何でも相談しろよ」
今になって父親の思いがひしひしと胸に迫ってきた。
父はこの世にいなくとも、自分の中に生き続けている。
何故ならば、父は自分のことを愛してくれていたからだ。
それなのに自分は、父に相談するどころか、話しかけさえしなかった。
自分は狭い世界に閉じこもり、父に背いて生きる自分のイメージを勝手に作り上げ、そして自らを責めていたのだ。
そうだ!この後ろめたさは、単に父親の期待に背いたことから生じたものではない。
本当は、死の直前、せっかく自分に歩み寄ってくれた父に心を開こうともせず、向き合おうともしなかったこの7年間の意固地な自分に対する後ろめたさであったのだ。
自分の中で父親は生き続けている以上、一人で考えていないで心の中の父と話し合ってみよう。
そして、父から逃げるようにして避けてきた医学部受験に向き合おうと決心した。
このように自分自身と真っ向から向き合い医学部受験を決意することで、奥底に巣くっていた「後ろめたさ」を乗り越える決心をし、先の見えなかった長い暗闇から、著者は抜け出すことが出来たのだった。
それは12年間という歳月の、実に長い遠回りだった。
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そして始めたお盆明けからの受験勉強。
受験に失敗したらまた状態が悪化するのでは?と心配する母親を納得させ、家族ぐるみで親交があった高校時代の恩師に教科書を貰い、テニス仲間や中学時代からの親友にも後押しされ、主人公は医学部への受験勉強を30歳にして開始したのだった。
かつて通った駿台市ヶ谷の予備校で模試を受け続けたが、精神的に幼かった著者は、若い子たちに交じってもさほどの違和感を感じることがなかったのも幸いした。
塞翁が馬とまでは言い過ぎだろうか・・
高校卒業後2浪した経験が、基礎学力を定着させていた。
仮に現役で大学受験に成功していたら、短期間での受験勉強では成功できなかったであろう!
と著者は言う。
また、現役時代苦手だった国語の現代文も社会人経験を経て大人になっていた自分には、大人が書く文章は若い頃よりも理解できた。
英語も外資系の会社で磨きがかかっていた。
受験勉強では苦手な数学を攻略することに力を注ぎ、センター試験の勉強も含め、毎日、最低でも10~12時間は勉強をしたし、それ以上やることもあった。
そして月に1度くらいは勉強に疲れると、映画を見たりテニスをしたりしてガス抜きをした。
それでも若い頃に比べ、勉強は苦痛ではなかった。
何故なら、人生の目標を見つけたから!
目標を見つけたらそれに向かって邁進するのみだった。
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受験を目の前にした頃、彼女は著者から離れようとしていた。
精神的に追い詰められた著者。
それでも、合格すれば何か変わるかもしれないということに一縷の望みを託し、受験へと突き進んだ。
京都大学の受験の時、著者は社会人経験も十分にあったはずなのに、大学が多い京都の下宿事情を考慮することも出来ず、受験宿を確保することが出来ずに困っていた。
人生をかけた大事な受験なのに、こんな体たらくなことで俺は本当に医者になっていいのか・・と情けなくなった。
その窮地を救ってくれたのが、ホテルニュージャパンの社長だった。賠償問題で遺族と以前から連絡をとっていたのだ。
母親も著者も、ホテル管理者トップとして社長に責任はあるものの、あの火災で父親が亡くなったのは悲運な事故だったと思っていて、社長のことを個人的には恨んでいなかった。
宿がないのを母親から聞いた社長は、著者に電話をかけてきて、出張の為に常に確保してある京都のホテルの部屋を使ってくれと伝えた。そして社長は「頑張ってくださいよ。」と著者を励ますのだった。
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3月、著者は、京都大学医学部に合格した。
唯一残念だったのは、京大医学部合格を周りの皆が祝福してくれた中、一番喜んでほしかったはずの彼女が心から喜んでいるようには見えず、自分から離れていったことだった。
こうやって30歳にして大学生になった著者だったが、東大の学部時代に履修した教養科目の単位が、京大では全く単位免除の対象にならず、2年間も教養科目を勉強することになったことは最もショックだった。
東大工学部の時代を合わせると4年間も教養科目を勉強したことになるが、何一つ教養などついていないと著者は苦虫を噛みつぶすのだった。